不図浮かんで来た、思索と不安みたいなもの。
ある目的があって、そとに出る。不思議なもので、外に出て、散歩というか歩くだけでも、不思議と色々な思索が湧いて出てくる。歩みとともに染み出てくる思慮は、なんだか小刻みに歩き出す。いいリズムだ。脳内で、脳漿をしぼりだそうとしなくても、ササラサと流れる思考が。
誰かと分かり合うということにおいて、不安というには十分ではない思索がわいてきた。ニクラス・ルーマンの、「自己準拠」という概念を思い出す。コミュニケーションにおいては、互いが互いに「意味」を伝え、分かり合っているわけではない。どこまでも、「自己準拠」。互いに、「分かった」という勘違いをしているだけで、「意味」は伝わってはいない。伝わっているのは、「形式」だけ。「形」だけシンクロしているだけで、結局は、「意味」を理解しあっているわけではないときた。
なら、人間のあらゆるコミュニケーションというものは、いわば「勘違い」の極みでしかない。あらゆるコミュニケーションは、人間が一人でしかないという事実から、人間を放して逃がしてはくれない。人間は、「一人」という膜を出る事はない。その膜がまるでないかのように、お互いが理解しあっているなどと云うのだ。膜の振動を、「膜の中にあるもの」と勘違いしている。
自分は、「他人」になることが出来ない。他人に成り代わることなどできない。「君の名は」のように、入れ替えが起こったとしても、その人自身の記憶や感性が流れてくるのでもない。「自分」は、時に、いやもしかすれば常に「自分」という桎梏から解放されることはない。
ワタシ達は、真に「他人」「他者」と出会う事はできない。分かり合えることもない。自分自身の感覚や、言語、理解というフィルターを通した情報しか、「自分」という存在は認識することはない。「他人」「他者」そのものを通じて、何かを理解することなど、決してありえない。(多分ね)
大分前に、そう学んだ。しかしどうしてこのことを忘れていて、また再構築するという形で思い出した(ことにする)。他者と真に分かり合えることはない。そのことがひどく淋しく風景として、心に投影。悲しい。どれほどこの手を伸ばしてみても、ジャンプの主人公みたいに感情ダダ洩れで叫んでも、「ワタシ」は「ワタシ」という領域を出ることが、出来ない。その外に出たとしても、きっとまた別の「ワタシ」というコードが成立しているだけで、果てしなく他人に見える「ワタシ」でしかない。それがとても悲しい。
しかしその悲しさは、容認されてはならないものなのだろう。完全に「ワタシ」が他者に理解されるということは、「ワタシ」の思考に、他者を屈従さえ、「ワタシ」という暴力に曝してしまうということなのだ。他者に「ワタシ」を伝えようと、(純粋であるはずの)分かってもらいたいというその傲岸不遜な思いが、他者を傷つけている拳になりうる。そしてまた逆も然り。
その暴力性、人間の真の相互理解の不可能性を乗り越えようとする足掻き、或いは理解しえないという事実に無知であるか、忘却していることが、一種の「形而上学的傲り(ジャン・ピエール・デュピュイ、2011、29)」のようにも見えた。
全てを自分のレベルに下げる。都合の良い様に、自分が理解できるように変更する。自分が理解できるはずだという認識の下に置く。勘違い、認識論誤謬を、無意識的に引き起こす。これが、「形而上学的傲り」でなくて、一体なんなのであろうか。
と、ここまで、目的地に到着するまでに考えていた。
目的地に到着してからも、まだ考えている。そこには、「分からないことを認める」という真摯な態度が欠けていたのかもしれない。全てを知りたいとまでいかないものの、強欲と呼ぶには十分すぎるほどの傲り。他人と触れ合うことが少ない人生だったかどうかはよく分からないが、いずれにしても今、他人を理解するということが出来ないことの寂しさと、不可能性と暴力性を感じているのは事実だ。(多分、寂しいだけなのだ。)
20代を迎えていないにもかかわらず、もう余生のように感じられるこの生が、無常に溢れるものでしかないのは、古典を読んでよ~くわかった(気がする)。リスペクトフォー鴨長明。安定して不安定な何もかもの間に、安定して安定なものを、どうしても喉の手が欲している。
帰りに、ガチャガチャして帰る。
いつも欲しいのでないのよねと言いつつ、招き猫のように硬貨を入れ、まわす。
狙ってたやつとちゃう。
誰かにあげようと思う。
欲しいかどうか分からないけど。
と
今日も大学生は惟っている。
引用文献
ジャン‐ピエール・デュピュイ.2011.ツナミの小形而上学.(嶋崎正樹訳).岩波書店
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