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喪われるものについて考える意味

喪われたもの。

この地球上には、あらゆるものが失われ、そしてまた今あるあらゆるものが失われる危険性にさらされている。

私は、何かを成すとき、何が失われるかを考えるようになった。「観光」によって。「人間」によって。「生命」によって。「選択」によって。「可能性」によって。何かを成すことは、何かを成さないことと同義である。誰かを助けることは、誰かを助けないということと同義であるように。

おそらく、この世のほとんどすべての「する」という行動には、「しない」という行動が表裏一体となってつきまとう。私たちが生きているということが、その分の生命を犠牲にして成り立っているように。「生きること」そのものが「殺す」ことであるように。

では、喪われるものについて考える理由は一体なんであるのだろう。

それは私たちが忘れてしまうからだ。

喪失は、失念であり、すなわち忘却である。ある物事について心を亡くすことである。忘れてしまえば、それがどうであったかを考慮することすら不可能である。

オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」にこのような文章がある。

歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続するための第一級の技術である。それはさまざまな生の衝突ー生は常にそれまでのものとは変化していくーの新たな様相に、積極的な解決策を与えてくれるからではなく、以前の時代を知らないことによって起きる間違いを回避させてくれるからだ。〔中略〕大衆化した人間の誰もがそうであるように、凡庸で、間の悪い、昔のことを忘れた、「歴史意識」を持たぬ者たちに率いられた大衆特有の行動は、まるで初めから過ぎ去ったもののように、いまこの時に起こっていながら過去の領域に属しているかのように振る舞うのである。(オルテガ・イ・ガセット、2020、175-176)

この文章を超要約すれば

「過去を忘れてしまった人は、”過去”に生きる」ということだろうか。

つまりは、過去が繰り返されるということだろう。

失われたということは、それに連関した情報が無くなってしまうわけで、その失われた物語の二の舞を演じることになるということだ。同じことを繰り返すのは、得策とは言えない。

だから、過去から学ばない人間や、その意義を知らない人間は、やはり「過去」に生きているのだろう。

これは今生きている時代区分がどうだという問題ではない。過去を学ばなかった人間は、ある出来事が起こる前の、過去の人間となんら変わりない”状態”に居座っているということだ。スマホだろうが、アップルウォッチだろうが、そんなものを持っていたとしても、以前そういう人間は「過去」の人物に違いないのだと、私は思う。

誤るは、「過つ」とも書ける。これはもしかしたら、「過去」に起こったような間違いを繰り返してしまうということも関係しているのだろうか。

本当に「過つ」ということは、それが誤りであったと気づく事である。最初から、ある行動が誤りであることを知っていれば、「過つ」ことはない。過去を学ぶとは、きっとそういうことなのだろう。「過去」を学ぶから、きっと、自分が過去人と同じにはならないだろうし、「”過”つ」という言葉も浮かんでは来ない。

過ちが、「去るべき」ものとしてあることを。過去が全て悪いことではないが、過ちは去り、これ以上大切なものを失わないために、過ちを犯さない。間違えたとしても、その「過去」からまた学べ。過ちをおかした時のままでいるんじゃない。

「喪われる」ことについて考える意味はきっとこうなのだ。







今日も大学生は惟っている。


引用文献

オルテガ・イ・ガセット.(2020).大衆の反逆,(佐々木考訳).岩波文庫


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