子供は「親の虚栄心の産物」か

以前から中島義道という方の本を読んでいた。ネットの連載?で、その人の人生相談のような記事を見つけたときに、このような題の代物を目にした。

興味のある方は、是非読んでもらいたいけれども、

私がこの記事を読んでいて感じたことと云えば、タイトルにある「子供は『親の虚栄心の産物』か」という疑問だ。

というかそもそも、なぜ子供という存在が呱呱の声をあげるのだろうか、という疑問が湧いてくる。

もちろんこれは、生物の子孫繁栄を達成するための手段であり目的でもある存在を生み出すためとか、どういったメカニズムで子供が出来るのかという問題ではない。

より形而上学的な意味での、自然の摂理どうこうの問題というより、究極的意味として、なぜ子供が誕生するのかという疑いである。

いや、もしかしたら「子どもが誕生する」という前提が可笑しいのかもしれない。割と分かっている人もいるだろうが、なぜ「子どもが生まれさせられる」という前提に基づいた方が、核心に迫ることが容易やもしれない。

実際、今思いつく限りで、英語では「be born」、フランス語では多分「être né」が「生まれる」という表現に当たる。(他の言語も見てみる必要がありそうかも。)

さて、子どもが「生まれる」ではなく、「生まれさせられる」という前提に立脚した上で、話を進めていこう。

では、なぜ「生まれさせられる」の根本にある、「子どもを作る」という動機が生じるのか。もちろん、生物の本能としてと云うこともできるが、今回は一旦保留しよう。そのような、生物としての云々は置いておいて、

子どもという存在の誕生が、その親にあたる人物にとって、どのような意味があるのかと考えたほうがいいだろう。

例えば、現代、物質的に充足している社会では、労働力となるような子供をわざわざ設ける必要は無い。社会が発展してゆくにしたがって、子どもの数が少なる、少産少死社会に移行することはよくあること。(そしてそこから少産多死か無産多死)

ということは、なおさら物質的な側面の欲求を満たすために子供を設けることは、無い訳ではないが、絶対数としては少なくなるだろう。

だとすると、老後が心配だからであるとか、周りがそうだから、なんとなくそう思っていた、親を心配させないために、家業を継がせるために、なんとなく幸せな家庭の青写真に「子ども」という要素が・・・などが候補として挙がるだろうか。

しかしながら、こうつらつらと書き連ねたところで、一貫しているということは、「子どもは意思を持って生まれてこない」ということだ。この事実が、子どもを設ける条件だの、動機だの、他の諸所の要素を限界まで影を薄くさせるほどに、圧倒的に、強大なその姿をどんと現している。

子どもは、親の影響の成すがままであるが、逆はというと、「誕生」ということにおいては、ほぼあり得ないだろう。

子供は、彼彼女自身の意思ではなく、親の意思、志向を基に生まれさせられる。これを、「親の虚栄心の産物」と言わずして何と言おうか。

如何なる状況にせよ、子どもを設けると判断したのは、親である。

さらにもし、子どもがいたら(なんとなく)良さそう、幸せそう、老後も心配いらなそう、誰かを安心させることができそうと思っているのなら、それは虚飾と何が違うのだろう。

子供が生まれる前から、本気でその子を大切にしようと思う人は確かにいるだろう。でも、その究極的な目的や意味ってなんだろう。いや、そこに究極的な「何か」なんてものは存在しているのではなく、なんとなく、一時的に、直観的に、幸せになりそうだからという理由で、親は子供を設けようとするのではないだろうか。

それはどこかドラマツルギーのような。

真に、自分の子供の願いを、「子どもが誕生する前から」希求しているのはまれで、頭の片隅で、いずれば子どもをもつものだ、と誰からも言われてはいないのに、そう思っている人がほとんどではないのだろうか。もしくはそう社会の中で、演じている方が楽だからではないのだろうか。(子育ては楽ではないが)

子どもを生まれさせるということは、すべてが綺麗ごとで済むことではない。その動機からして、美辞麗句を並べたところで、どうも虚飾にしか見えないようなところが垣間見える気がする。

子供とは、一体何なのだろう。

一方的に、自分の子であるということを投影させて、それに準じたステータスのようなものを得て、社会的または自己実現的な欲求を充足させるため?

もし仮にそうだとしたら、それこそ「親の虚栄心の産物」に他ならない。

加筆2020年5月20日

それにしても、特に現代において生まれてくる子供ほど、苦労する者はいないのではなかろうか。本来であれば、そもそも生存に適していないような精神状態や考え、思考の持ち主でさえも、保育器に入れられて、生命を延長させられる。生きることに向いていないやつが、生きざるを得なくなる。(そういう輩が、一定数いることはなんら不自然なことではない)

そうしていつの間にか、就職だの、進学だの、結婚だの、と最初から生きる事そのものに向いていないような人間が、そうせざるを得なくなるなんて、なんて悲しいことなのだろう。この世界で生き易いのは、元々生き易く生まれた者が大半。それは家庭の事情も関係しているが、その個体が持ち合わせている精神的・身体的な、生来の特徴も少なからずかかわって来る)

「平等」や「公平」という名の下に、生きやすい人間と、そもそも生きるのに向いていない人間との差がどんどん膨れ上がっていく。まさに惨劇である。何が世界への贈り物なのだろうか。

さて

反出生主義というわけではないけれども、子どもを誕生「させる」、生れ「させる」とは、どういうことかを、なんとなく考察してみた。

20年も生きていないのに、なぜだかこんな沈鬱なこと考えている・・・


「病気かな?

 病気じゃないよ?

 病気だよ。」

渡航.やはり俺の青春ラブコメは間違っている。九巻より。




今日も大学生は惟っている。



🔵メインブログ🔵

いいなと思ったら応援しよう!

hikki-suspended
サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。