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「発展」ではなく「発酵(腐敗)」

発展だと?


宇宙にでも行くつもりなのか。

ツィオルコフスキーの考えた花火人間みたいな、それで、その装備で?そうまでして、生きる意味や価値が、あるとは思えないし。それが星を苦しめる理由や根拠になるとは思えない。もし大規模な星間飛行が出来たとしても、また別の星で二の舞を演じるならば、それを延々と続けていくことには、やはり意義など見いだせない。

でもその先を見てしまうと、前を見てしまうと、その後ろの道筋までも否定してしまうことになるから、「悪い」だなんて口にすることは出来ないのだけれど。

「発展」という言葉に、余計に違和感を持つようになる。余計にということは、色々あって違和感は持ち合わせていたということなのだが。とりあえず、「発展」という言葉が、時世を形容するというか、形容すべき文言ではないと感じている。「発展」に関わるあらゆる言葉を批判したいわけではないけれど、「発展」とも受け取れる言葉が、人間の意識というか、これからを生きる人間には、あまりお似合いではない気がする。

「発展」という言葉に関連して、ある文章を引用したいと思う。

つまりヒロシマはいたるところにあるのである。アーレントも正しい。アウシュビッツはいたるところにある。「持続可能な開発」を口にする人々は、自分たちが何を語っているかわかっていない。その表現は用語として矛盾している。「開発」という言葉は、なんらかの容積がほとんど乗数的に増大するということだ。「持続可能な」という語の意味は、そうした成長に時間的な制限を設けないということだ。(ジャン・ピエール・デュピュイ、2011、118)

この文章は、「ツナミの小形而上学」という2011年に翻訳出版されたもので、かれこれ9年、10年近く経っている。コロナ禍という予想だにしなかった事態が起こったが、そこでも「発展」或いは「開発」という、西欧の進歩史観に引きずられたような考えを持ちだすのは、違う気がする。

というか今の、社会におけるほぼあらゆる(特に企業)活動においては、「持続可能な」という文言が漏れなく付随してくる。「SDGs」という言葉をよく目にするようになったことも関係しているだろう。

しかしそこに、引用文にあるように、「持続可能な」という言葉に後に、「発展」や「開発」という一言を付け加えるのは、やはり違和感がある。

「安定」「環境破壊の防止」というイメージが見受けられる「持続可能な(サスティナブル)」という言葉に、乗数的に増大する「発展(開発)」は、あまりにも相性が悪い。というか、「持続可能な発展・開発」という言葉は、その乗数的な成長を、引用文にもあるように、「時間的な制限を設けない」ものにしている分、たちが悪いような。

今の日本を例にしよう。少子化が、コロナ禍を境に加速。当たり前かもしれないが、昨年に比べれば生まれてきた子供たちは、相対的に減少傾向にある。必然的に減る労働人口。やけに多い高齢者に対して、やけに少ない若い人。ただ若い人の負担が増えるだけ。税金搾取されすぎ。使い道は、当然にように、国民が納得する使い方をしていないので、明確にはされず。政府は高齢者の翁ばかり。普通に暮らしたいというのさえも、ラディカルな夢となる。(いやいや戯れもいい加減に)

「発展」をする意味も、その「発展」や「開発」の土台も、全然ないような気がするというか、これから無くなるのがよくよく見えているというか。こんな時代に、「発展」とのたまっているのは、既得権益を守りたい人だけじゃないか。

腐る

つまるところ

「発展」ではなくて、個人的には、「発酵」の時代なのではと思っている。つまりは、腐るということでもある。(熟成的なね)

「人口減少社会のデザイン」という本を読んでいただければわかると思うが、この「発展」の時代が終わりを向かえ、定常化社会を迎えるという予測が立っている。(広井良典、2019)

この「発展」が終わりを迎え、「いい意味でも悪い意味でも腐っていく」時代が、来るのではないかと感じている。熟成し、文化的に発展していく、社会の上部構造の部分が、より深いレベルで発酵するのではないかと。

これに関連して、「日常を拓く知 古典を読む4 ゆたかさ」という本から、気になる文章を引用する。

科挙を本格的に運用し始めた宋王朝は、一三世紀後半にモンゴルによって滅ぼされます。〔中略〕これまで受験勉強に割いていた時間を自分の好きな学問や芸術に使えるようになり、文化活動は活発化した(小林隆道、2020、92)

「科挙」という試験は、それはそれは厳しく、時間も労力もかかるものということくらいは・・・知っている人もいるかもしれません。それが官僚になるためにはほぼ必須の要素だったので、非常に多くの男性が受けた試験です。

この「科挙」というものを、ワタシは一種の「発展」の比喩というか、換喩のようなものだと感じます。

モンゴルの支配が強くなるころから廃止されましたが、それが廃止されたことも関係して、「文化活動は活発化」したのですね。そういった、競争や発展に費やすような時間が無くなるというか、それ以外に費やす時間が確保された、ある意味で、「競争」や「発展」から抜け出した、一三世紀後半の中国は、これから世界或いは日本が迎えるであろう(?)時世を表しているものではないかと思います。

「発展」「競争」「開発」「新自由主義」「自由市場主義」「観光のグローバル化」「経済発展」「グローバルエリート」。こうした変化の速い、異常に速いものに、人間も、或いは地球もついていけてはいないのではないか。

中国の科挙の例をすべての場合に当てはめたいわけではないけど、少なくとも、これ以上の「発展」や「開発」に疑問を抱くためには、必要というか、示唆とかにはなるのではないかと、勝手に思ってる。

まぁ自分が競争嫌いだから、時代も、地球も「競争嫌いだよ」って言わせて、勝手に納得したいだけかもしれないし、ただの詭弁を作りたいだけかもしれない。一方的に自分の心象と切り離すことが出来ないのは確かかな。





今日も大学生は惟っている。


参考・引用文献

栗山圭子.2020.日常を拓く知 古典を読む4 ゆたかさ.世界思想社

ジャン‐ピエール・デュピュイ.2011.ツナミの小形而上学.(嶋崎正樹訳).岩波書店


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