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「医者」が殺すべきではないという考え

障がい者関連の本を読んでいる時に、突然浮かんだ考えを、書いていく。

ついこの間であった気がする。お医者さんが、とある人物から依頼されて、依頼主を安楽死というか殺した(?)という事件(のようなもの)。お医者さんは、確か二人で、逮捕されていたが、それについて様々な憶測や意見が飛び交っていたような。

少し時間が経ってしまったけど、というか何時起こったかも覚えていないけど、これについて意見を書いていく。

もちろん、「良い」や「悪い」というような、二項対立だったり、単純な判断や感情に任せた意見はこの記事では目にしないだろう。

とりあえず、件のことで注目したいのが、「【医者】が殺してはいけない」、そして「医者が”逮捕”された」という考えと実際の出来事だ。

先に、『障害者と笑い 障害をめぐるコミュニケーションを拓く』から、引用したいと思う。

障害を何らかの原因によって生じた身体的・精神的な「欠陥=インペアメント」(impairment)であると捉えることは、おそらく多くの人にとって違和感のないもの〔中略〕障害を医療の範疇に位置づけ、それを治療の対象としてみなす特徴を有することから、ながらく「医学モデル」と呼ばれてきた。(塙幸枝、2018、34)

おそらく、この引用文にあるような考え、「医学モデル」が、「【医者】が殺してはいけない」という考えと、そして「医者が”逮捕”された」という事実の背景になっているのではないか、と私は思う。

その事件は確か、障がい(とよばれる特徴)によって、自らによる生活が大変に不可能であって(これ以上生きることがある意味で≪障がい≫になりそうであって?)、医者に、依頼主自身を殺す(?)よう依頼したという内容であった気がする。

これに対しては、「良い」「悪い」といった判断を下すことは容易ではないだろう。

とにかく一つ言える事は、件の事柄に対して、「医学モデル」の考え方が「【医者】が殺してはいけない」という考えと、そして「医者が”逮捕”された」という事実の背景なのではないかということを繰り返しておこう。

医療モデル、「障害を何らかの原因によって生じた身体的・精神的な「欠陥=インペアメント」(impairment)であると捉えること(塙幸枝、2018、34)」という考えは、「障害」を治療する対象とみなし、実際に治療する際に有用な考えになるかもしれないが、しかしこれが一つの穿った見方であることも否定できないのではないだろうか。

何らかの「欠陥」或いは「身体の欠損」を、当然のごとく「障害」であると捉えることは、ある意味では役立つものであるかもしれないが、しかしあらゆる状況においてはその限りではなくなるだろう。

「障害」を治さなければならないということは、障がいを、正常ではない「異常」とみなすこととほぼ同義。それが正しいかどうかは判断出来はしないが、常に真であるとは思えない。

「【医者】が殺してはいけない」

この意見の裏にあるのは、「医者」は治すべき、或いは、障がいが治されるべき対象であり、異常であり、治療する対象であるという一種のステレオタイプ、偏見、妄執なのではないだろうかと思われる。

つまり、「障害」というものを、非常に固定的なものだとみなしているのである。

そしてまた、「医者が”逮捕”された」という事実も、法学部でもなく、生命倫理への造詣はクソほどないので、詳しくは言えないが、同じような「偏見」が隠れているのではないかと思われる。

少し話は変わるが、最近大学で、「障がい」に関わる講義を受けたこともあって、いわゆる「障がい」と言われているような事柄の原因を個人に還元するような考えから由来する、且つ健常者を基準とするような、「障がい者」という捉え方、換言すれば、「健常者/障がい者」という二項対立的判断を、信用しなくなった。

なんとなく、「障がい」のようなものを、「障がい」をみなす。

そうではなく、何が「障がい」なのかということを、考えなければならないのかもしれない。「医学モデル」も確かに役に立つ。しかし、それが総てではない。

欠損やインペアメントとしての「障がい」を、障がいの一般名詞として捉えるのではなく、その「障がい」を勝手に規定するような思想や社会を疑ってみるべきではないのか。

「障がい」「障碍者」に植え付けられた、或いは「健常者」にさえ存在するような、当たり前をこれからも疑ってみようか



今日も大学生は惟っている。


引用文献

塙幸枝.2018.障害をめぐるコミュニケーションを拓く.新曜社



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