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理解とは、「それでも」と言える事
※僕のヒーローアカデミアのネタバレあります
ブリーチという漫画に、愛染惣右介によるこのような言葉がある。
「憧れとは理解から最も程遠い感情だよ」
完全に信じているわけではないけれども、一理ある文言でもあるとも思える。
では、いつもの「僕のヒーローアカデミア」を例にとって、この言葉について考えて見よう。
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緑谷出久は、オールマイトへの憧れを抱いていた。恐れ知らずの笑顔で人を助ける其の姿を見て、緑谷出久は、オールマイトに憧れるようになる。
物語の中で、緑谷出久は、オールマイトと出会い、そして弟子として、後継者として鍛錬することになるのである。
そこで、緑谷出久は、オールマイトという存在を理解し始める。それは、緑谷出久が、知らないことばかりであった。
オールマイトが無個性であったこと。
オールマイトが、グラントリノという教師に教わっていたこと。
オールマイトが、先の戦いで、呼吸器官半壊の傷を負っていたこと。
オールマイトが、オールフォーワンという巨悪と戦っていたこと。
オールマイトが、トゥルーフォームと、マッスルフォームを使い分けていたこと。
オールマイトが、ワン・フォー・オールという個性の継承者であったこと。
オールマイトが、もう戦えない身体であったということ。
オールマイトが、もうすぐ死ぬかもしれないということ。
オールマイトが、全ての人を救えなかったということ。
緑谷出久が、オールマイトがについて深く知るたびに、もうかつてのオールマイトが居ないということを、緑谷出久がどこかで深く認識しているのだろう。
そして、自分が抱いていたオールマイト像と、実際に知るオールマイトとの違いを克明に知る。「憧れ」ていた時とは全く違う。一方的に、興味や関心を抱いていた時とは、全く異なる。
オールマイトの、強い部分も、そして弱い部分も、含めて、その上で、緑谷出久はオールマイトを共にあろうとする。
もうかつてのオールマイトはいない。自分がワン・フォー・オールを継承したことによって、オールマイトは、闘うことが出来ない。以前のような、完全とも言える平和の象徴として、もうそこに立っていない。
「それでも」だ。
それでも、(繰り返すが)緑谷出久はオールマイトの下で、学び、成長し、ヒーローになろうとする。「憧れ」は確かにあるだろう。でもそれは、単なる憧れではない。理解をしようとして、時に絶望し、その上で「憧れ」る。
爆轟勝己もそうだ。「それでも」、爆轟勝己は、オールマイトが自分の憧れた存在なのだと言った。どんなに人を全員救うことが出来なかったとしても、ヴィランから見ればただの暴力装置であったとしても、爆轟勝己は、オールマイトのように、いやオールマイトを超えるといった。
物事を理解するということは、その物事の悪しき面と、良き面を知ることではないか。
それが自分の予想とは異なったものだとしても、「それでも」ということが、理解するということではいだろうか。
理解したくないものは、そのままでいい。しかし(個人的に)、物事の一つの側面だけを知って、それで理解した気になるのは、虫が良すぎるというか・・・。
⚪⚪っていういい所もあって、■■っていう悪いところもあるんだけどね、「それでも」さ〜、と言える事が、理解に近づいた事なのだと最近常常思うのデス。
あなたには、「それでも」と言えるものは、あるだろうか?
と
今日も大学生は惟っている。
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