私はそっぽを向いていたい
「そっぽを向く」
これは私なりの
「日常」からのささやかな脱却であり、
「非日常」への確かな渇求である。
観想
旅は「観想的」である。と三木清は考える。
往々にして人々は学校や、職場などに向かい、着いたら着いたで「家に帰る」ことをどこかで意識してしまっている。
つまり日常においては「観想的」になることがムズカシイ。
目的(地)や結果ばかりを重視しすぎて、「過程」を無視してしまう。
電車
電車の中を覗いてみよう。
ほとんどの人が、スマホを見ていたり、新聞や本を読んでいたり、音楽を聴いていたり、寝ていたりしている。
でも窓の外を眺めている人はそう多くはない。
そういえば
星の王子様を読んでいた時に、興味深い記述を見つけた。
≪Ils poursuivent les premires voyageurs ? a demandé le petit prince .ーIls ne poursuivent rien du tout, a dit l'aiguilleur. Ils dorment dans le train, ou ils bâillent. Les enfants seuls écrasent leur nez contre les vitres. サン=テグジュペリ、2015、『やさしいフランス語で読む 星の王子さま』、Miki Terasawa編、IBCパブリッシング株式会社
日本語で書いていたわけではないので、さて日本語で解釈すると・・・
「彼らは最初に来た人を追っているの?」
星の王子さまはそう言った。
「いや、何も追っちゃいないさ。」
信号手は答える。
「大人たちは、電車の中で寝るだけさ。あとすることと言えば、アクビぐらいかね。子供達だけだよ。物珍しそうに鼻を窓に押し付けて、外を見てるのは。」
何年も前に書かれた本なのに、なんだか現代にも通ずるものがあるのは気のせいだろうか。
「過程」のことなど全く考えず、大切なのは「目的」だけ。
もしかしたらその「目的」すらも見失ってるかもしれない。
大人たちは何も追っていないし、何も探せられないのかもしれない。(大人たちに一方的に責任があるとは思えませんが・・・)
私は
ですから、そうした「結果」や「目的」に捕われた自分に
私はそっぽを向きたい。
そしてそっぽを向いたら、「過程」を大切にしよう。
おそらく
「過程」を大切にすることの究極の形が、「旅」であり、「観想的に」なることなのではないだろうか・・・。
そうして私たちは「日常」から脱却していと渇望しているのだ
しかし、私たち人間はこの「人生」という旅からは脱却すらも出来ない
もしかしたら最初から「過程」に囚われた存在なのではないか
と
今日も大学生は思いみる。