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私が「一人」になったなら

言葉を勉強していると、何故だかその言葉を使う「人間」について結局考えている。

いつの間にか、「人間」とは?を考える穴に落ちている。

そして、大学で行う学問は往々にして、「人間」そのものを問うものであると私は思う。

だから、「学問を行う」ということは私たち自身とは何かを探ることである。

自己

人は一度でも、

自分ってなんだあろう・・・?」とぼんやりでも思ったことがあると思う。

様々な分野で、様々な学者が「自己」とは云々かんぬんと述べているけれども結局それらしい意見はあるが、それが真実であるかは誰にも分からないようにも思える。

一人

「つながりの進化生物学」岡ノ谷一夫著、という本の中に

このような文章がある。

自分の心が、他者に見ていた心を座標軸変換したものだとすれば、自分は、もうひとりの他人ということになるよね。思考は、自分の心の中で、言語や視覚的なイメージを組み立てることです。そのことで、自分の考えをもうひとりの自分に伝え、明確化しているのです。岡ノ谷一夫、「ひとりでいても、ひとりじゃない」、『はじまりは歌だった 「つながり」の進化生物学』、鈴木久仁子編、朝日出版社、276-277

知り合いや友人が少ない、それはつまるところ「一人(畢竟ぼっちのこと」でいる時間が多くなるということだ。

(私とて例外ではないけれど・・・)

しかし、この岡ノ谷一夫さんの考えに基づけば

「一人」でいることを意識している私はもはや「一人」ではなくなる。

相対的に見れば比企谷八幡のような「ぼっち」は、意識という点においては

真に「ぼっち」ではないということになる。

(と言い聞かせて、自分に友達がいないのを慰める人、私の他にいないかな・・・)

これは非常に興味深い考えだ。

その人が一人でいるから、身も心も孤独だろうと決めつけてしまうよりは

ある意味で社会学・哲学的な視点でもって

私/彼/彼女は、「孤独・独り」なのではなく、「孤独・独り」のように見えていると判断することで、なんだか物事の一歩先を見ることができたような気がする・・・。

もし「一人」になったら

ではもし私が(意識という観点から)真の意味で「一人」になったとしたら私は一体どうなってしまうのでしょうか・・・?

考えてみましょう。


つまり「一人」になるということは、意識における他者との交流がなくなってしまうということです。

引用には「自分の心が、他者に見ていた心を座標軸変換したもの」とありましたよね。

つまり他者との意識における交流がなくなるということは、自分の意識や心を形成するための要因が無くなってしまう、ということです。

他者の心を反映して、他者から学ぶことによって作り上げられるはずの「私」という意識が、「一人」になることによって形成されなくなる。

つまり「消え去る」ということ。

私が「一人」になるということ、それ即ち

「私が死ぬ」、ことを意味するのでは私は思ったのです。

一人になることで、そのまま一人で居続けるのではなく、

一人になることで

0人になるのです。


私が「一人」になったなら

本来であれば自己完結しない「私」が、自己完結することになり、「私」という意識が世界から忘却され、私もまた「世界」を思うこともできなくなってしまうと考えながら

今日も一人の大学生は、「一人」の有難さをしみじみと感じる。

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