「はたらく」の当たり前は変わっていく
実家は、地方公務員だった父と専業主婦の母。地方から大学進学のために上京して、卒業後は、東京に住み続けるために就職する。実家暮らしでない以上、それは生きていくために当たり前のことだった。
1983年。“男女格差”が大手を振っていた時代。新卒で入社した会社では、女性社員は朝の机ふきとお茶入れや灰皿の用意から始まる仕事。あくまでも補助職という女性の働き方が当たり前のこととして受け容れられていた。ロールモデルになるような先輩もいなかったのか、気づかなかったのか。2年経ったころ新聞広告を見て、転職しようと思い立つ。取り立てて尖っていたわけでもなく、「自分で仕事をしている実感が欲しい」「任される仕事をしたい」くらいの理由だった。
筆記試験を経て、最終面接。面接官のなかで一番若そうだが、偉そうでもあった人が部門長で、年配の品のよい感じの人が編集長(上司の上司)。採用に関して、最終2名(私ともう一人)残っていたなかで、部門長と編集長で意見が分かれたと聞かされた。適性検査の結果に「採用するかどうか迷うなら、採用したほうがよい」とあったことと、「(私のほうが)長く続きそうだから」と編集長が推してくれた、そうな。幸いにして中途採用となる。
「なんか、イチかバチかのような決め方だったんだ・・・。まぁいいか」、そして、私の定年に至るまでの会社員生活が始まった。当時、定年は遙か先のゴールだった。当然のようにその先に「はたらく」のイメージはなかった。
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転職後の仕事は、企業人向けの教材開発。教材の企画提案、監修者となる方への依頼、カリキュラム設計、原稿入手・原稿整理、入稿から制作完成までの工程管理をメインとして、関連する制作物や販促関連の全て。何から何まで一貫して担当であり、良くも悪くも任された。そういう意味では望み通りであり、当時の私にとっては、まるごと引き受けることが「はたらく」こと。
教材のテーマは、最初のうちは与えられたり自分の関心事がメインとなっていたが、年数を重ねるうちに、会社にとって必要であるテーマ、そして、社会から求められるであろうテーマへと深化し進化していった。そこが、この仕事の面白さであり、面白がれる部分だった。だから、テーマを探索し提案し承認されるに至るプロセスが、ある意味、一番ワクワクしていた。
それ以降は、ひたすら教材として形にし仕上げるために、身を削ってきた感覚がある。というとカッコよすぎるが、実際、長時間労働が当たり前の時代ならではの、あるあるだが、終業時間に同僚たちと夕飯を食べに行き、そこから腰を据えて残業をし、周辺のビルの灯が消えているのを眺めながら家へ帰る、という日々の連続。
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2020年年末、定年で退職。今の時代も、男女格差はないとは言い切れないし、むしろ意識のなかに深く潜りこんでいるからこそやっかいな気もするが、少なくとも枠組みはだいぶ取り払われている気はする。この36年余の在職を経て、月並みだけれど、男女を問わず「人」から得た学びは大きかったし、お互いに反面教師である場合もあるものの、そのコミュニケーションをとおしてこそ、仕事をしている実感が得られたと思う。
今や人生100年時代と当たり前のように言われるが、それもここ数年の話。その時点で50代半ばを過ぎていた私にとって、定年をどう考えるか、「はたらく」を自分のなかでどう位置づけるかを考えるきっかけになった。ここまで続けられたのは、目標があるとつい頑張ってしまう自分や、その時々の仕事や人との出会いを面白がってきたり、その出会いに救われてきたから。仕事大好き人間だな、とつくづく思ったこともある。
定年後の人生も長い。それならば、今ここで、一区切りつけて、次の人生の仕事と、その「はたらく」を味わってみたいと思っている。