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日記25

ありえたかもしれないたくさんの世界線について思いを馳せていた。

最近、まっすぐ家に帰らない。それはどこかに立ち寄るって意味ではなくて、ちょっと遠回りして帰るって程度のものだ。できるだけ細い道をジグザグに走る。所要時間はプラス10分くらい。これが中々楽しい。

いつもと違う道を走っていると、いつもと違うことを考える。今日は世界線について考えていた。あのときあの選択をしていたら…そんな無数に存在していた選択肢、世界線について。

平成24年くらいに僕は中国の四川大学で日本語教師として勤める予定だった。ちょうど折り悪く反日運動は全盛で、この話は立ち消えになった。「日本語が恋しくなったら、現地にイトーヨカードーがありますので、そこの案内カウンターに行ってください。日本語ができる人がいます。」と言われた。今は日本国内ですら、イトーヨカードーは消えつつある。

どの職場に属するか、誰と付き合うか、どこへ行くのか、何をするのか。これらの選択で人生は目まぐるしく変わる。これは至極当たり前のことなのだけど。現在から過去を眺めてみると、その影響力の大きさに驚愕する。日常的にそんな選択を迫られ続けているなんて!人生の自由度、人生の不確実さが改めて思い知らされる。

年齢を重ねていって、おじさんになって、おじいさんになっていくと、日々の生活から起伏が失われていく。ぼんやりとそんなイメージを持っていたけど、自分で選択することをやめない限り、新しい選択をし続ける限りは、人生はいつだって、綱を渡っているようなエキサイティングなものになるような気がしている。もしそうなのだとしたら、そんなふうになるために、そんな選択を続けたい。

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