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【往復書簡】生きるために人は誤る(働く大人の自己肯定感⑧)

こちらの記事は、現在得津さんと行っている「働く大人の自己肯定感」というテーマの往復書簡の8本目です(上野側としては4本目)。

往復書簡の連載はこちらで遡って読むことができますので、まだの方はぜひご覧になってください。


毎度ご無沙汰しております。過去イチでした

いつもいつもこの往復書簡は学びが多いのですが、今回いただいた内容は自分の中で過去イチでした。

内容もさることながら、ひでさんの強い関心といいますか、本当に興味があることを語ってるんだなあという感じが伝わってきて、読んでいて新鮮な感覚がありました。

それと、最後に問を列挙してくれていたのも考えやすくてとても良く、中でもとりわけ

どうして私たちは判断を誤ったり、認知が歪んだりしてしまうのでしょう?(しかも集団的に)

という部分にはつい持論を答えたくなってしまいました(作戦どおり?笑)。

ということで、今回は最後に頂いた問いを入り口にしながら「働く大人の自己肯定感」について新しく思ったことを書いていきます。


自己肯定感への手放しの礼賛?

上記の問いへの答えを作っていくことで入り口にしたいと思いますが、問いには補足がありましたので、改めて確認しておきます。

これはなんの根拠もない意見なんですが、自己肯定感という言葉が広く知られるようになったために、「とりあえず自己肯定感あげておく」「自己肯定感が高まれば全部OK!」のような言説やキャッチコピーを目にするようになりました。そしてそれを無批判に受け入れる受け手の態度も見られます。

傍目には、「あなたのその辛さは自己肯定感の問題じゃないと思うなぁ…」という人まで、「自己肯定感が低いからダメだったんだ」と認知している様子が見られたことがありました。

これって、どうしてなんだろう?どうして素直に受け入れることができるんだろう?マーケティングの持つ力なのか?

などなど考えていくと、人の認知バイアスや判断について興味が湧いてきたんです。認知バイアスや判断のプロセスあたりは、上野くんの方が詳しくて関心のある事柄でしょうから、もしお返事に含められそうなら含めてくれると嬉しいです。

要するに、もともとの問い「どうして私たちは判断を誤ったり、認知が歪んだりしてしまうのでしょう?(しかも集団的に)」には、自己肯定感を手放しでよしとする風潮への懸念から言っていると解釈しました。


こうした事象を念頭に置きながら整理すると、人が判断を誤ったり認知が歪んでしまったりするのは、大きく分けて次の2つの視点から説明できると思っています。

【視点①】人間は全知全能ではないから
【視点②】人間は情報的存在だから

一つずつ見ていきます。


【視点①】人間は全知全能ではない ~コンサルタントの考え方~

言うまでもなく人間は全知全能ではありませんし、また、この世界の有り様のすべてを説明するのにどれほどの情報が必要なのか、莫大すぎて検討もつきません。

どれほど科学が進歩し、どれほど教育が豊かになっても、私たちは「自分が知っていること」よりも「自分が知らないこと」の方が圧倒的に多い。

そんな前提に生きています。

裏を返せば、常に限定的・制限的な知識状態で判断を下す必要があるということです。


例えば、コンサルタントが一番初めに仕込まれるのは「いまの自分が持っている知識の範囲内で筋の良い仮説を作る訓練」です。

自分が経験したことのない業界のコンサルティングを行う場合、必要な知識が大幅に欠けているので、当然、クライアントに筋の良い提案ができる前提にありません。

提案を作るにあたって「もっと調べたい」という衝動に駆られるのですが、そのアクションの前に「いまの情報状態でどんな仮説が立てられるか?」を徹底的に考え抜くことが求められます。

その業界のことを知らないのであれば、過去に自分が経験したプロジェクトとの共通項を考えることで自分の経験値を使えないかと考えてみたり、何もしらない素人だからこそ一番初めに思いつく素朴な解決策を中心仮説に据えてみたり…。

コンサルタントにはいろいろなワザがあるのですが、とにかく、そのときに手元にある情報だけで言えることを考え抜くことが重要になってきます。


そうして初期仮説を作ることができたら、いよいよ本格的なリサーチです。

「この辺に何かヒントがあるのでは」
「ここの数字から怪しいにおいがする」

などなど、初期仮説を作る段階で気になっていたことを片っ端から調べていきます。

すると、仮説を肉付けする情報が出てきたり、反対に仮説を根本から見直すべき情報に出くわしたりと、仮説にいろいろな修正を加えることになります。

特に重要なのは後者の情報で、仮説を根底から覆すようなファクトに出会えたら、それは初期仮説を作ったときの見落としに気づけたということなので、「なぜ初期段階でこのストーリーを見落としたのか?」「ここから言えることはなにか?」と、更に仮説やチームの思考方法を抜本的に見直していきます

何回自分たちの仮説を根本から見直せるかが最終的なアウトプットの精度と質を上げていくための一番のポイントなので、誤りを素直に認められるマインドが何よりも重要になってきます。


長々とコンサルの実務の話をしましたが、言いたかったことは「どれだけ徹底的に考え抜いても、新しい情報が得られれば仮説の修正は待ったなしである」ということです。

コンサルタントはそれなりに考えることに長けた人であることが多く、しかもそうした人がチームを組んでやっているので、初期仮説を作る段階で単純な見落としや推論の誤りなんかはほぼ無いと言っていいと思います。

それでもなおリサーチによって仮説の更新が相次ぐのは、人が判断を誤るのは論理的な思考能力を欠いていることが原因ではないということです。


では、判断を誤る本質的な原因を何だと考えているかというと、それは端的に知識不足です。

僕は知識が増えれば判断が変わるのは必然だと考えています。


このイメージを簡単な例で説明してみたいと思います。

AさんとBさんの2人がいて、それぞれがある人物Xに対して違った知識を持っているとします。

▼Aさんの知識
a Xは新卒一年目の社会人である
b Xは仕事でミスが多く、周囲に迷惑をかけても謝らない
c Xは就業後、毎日ゲームを5時間している
 ↓
Aさんの印象「Xは怠惰でダメな人間だ」
 
▼Bさんの知識
c Xは就業後、毎日ゲームを5時間している
d Xは昨年e-sportsの世界大会で日本人で唯一ベスト4に入った
e Xは今年の世界大会では優勝候補の筆頭と目されている
 ↓
Bさんの印象「Xは実力を伴った努力家だ」

このように人物Xという1つの対象であっても、しかも「c Xは就業後、毎日ゲームを5時間している」という知識は共有していても、その他に持っている知識によって全く見え方が変わるのは当然のことです(むしろ、中途半端に情報を共有している方が話がこじれやすい気がします)。

Aさんが何かのきっかけでdやeの知識を得ると人物Xへの印象は大きく変わるでしょうし、逆も然りです。


これは決して極端な例ではなく、私たちの日常で日々当たり前のように起こっていることですよね。

特に、人間には確証バイアスが働くので、一度自分が抱いた印象を覆す情報はどんどんスルーしてしまいます。

コンサルタントのように、自分の仮説を覆す情報を「あえて」探しにいくことは日常的には稀ですので、自分が持っている情報が非常に限定的なものであると疑うことなく、手元にある知識だけで「○○は✕✕だ」と判断してしまいます。

僕自身、新しい知識を得ることで自分の考え方が180度変わった経験は何度もありますが、そのたびに「自分が知らないことで思い込んでることはたくさんあるんだろうな…」とゾッとします。

論理的な推論能力の欠如ではなく、単純に知識不足で判断を誤ってしまう。

これが1つ目の視点です。


【視点②】人間は情報的存在 ~情報が先、物理が後~

もう一つの視点は実証的な説明があるわけではなく、あくまで個人的な人間観なのですが、人間は非常に情報的な存在だなと思ってます。

「情報的な存在」という表現で言いたいことは、その存在の本質が物理ではなく情報の方にある感じがするということです。

よく「人間は生物としての制約から逃れられない」と、物理的な側面を取り上げる言い方がありますが、僕はそれよりも「人間は情報の制約から逃れられない」という感覚を強く持っています。


例えば、誰もが知っている心理学の基礎的な実験で「レモンや梅干しを思い浮かべると唾液が出てくる」というものがありますが、まさにこれこそ情報が物理を制御している良い例です。

人間が大きなことを成し遂げることができるのは、その達成内容を先に想像し、その想像したイメージに近づくように行動するからです。

部屋が暑いと思えば涼しい状態をイメージし、その状態に近づけるためにリモコンのスイッチを押す。

建設会社が大きなビルを建てる際には必ず膨大な量の図面を作りますが、PC上で作成される図面データは情報ですし、なんなら「こんなビルを建てたい」と構想することも非物理の領域の話です。

こうやって見てみると、人間の動きは「情報が先、物理が後」という順序で動いている気がしてなりません。


さて、この話がなぜ判断の誤りや認知の歪みにつながるかですが、人間のこの「情報が先、物理が後」の原則は非常に強く、ありとあらゆる判断をこの原則にそって行うことになるからです。

「あばたもえくぼ」はわかりやすい例ですが、「~さんが好きだ」という情報が結論として先にあり、それを正当化するように知覚が反応してしまうというのは、まさに「情報が先、物理が後」です。

「次のTOEICではいい点を取るぞ」と目標を決めると、英語の情報がどんどん目に飛び込んで来るようになりますし、外国人に英語で道を聞かれれば「これはTOEIC対策の一環だ、頑張ってコミュニケーションを取ってみよう」と行動が変わります。

これらは確証バイアスそのものですが、確証バイアスという強力な認知過程の裏にあるのが「人間は情報的存在である」という原理なのではないかと思っています。

とにかく、一度強いイメージや目標を持つと、人間はどんどんそちらに引っ張られるように判断してしまう。

人間は物理の方に本質部分があるのではなく、情報の方に本質があるのではないか。

これが2つ目の視点です。


結局、人間はなぜ判断を誤るのか? ~生きるために人は誤る~

以上、頂いた問いに対して日頃思っていたことをこの機会に書き出してみましたが、結局のところなぜ人間が判断を誤ってしまうかというと、一言で言えば「生きるため」だと思うんです。

【視点①】人間は全知全能ではないから
【視点②】人間は情報的存在だから

人間は全知全能ではありませんが、それでもなおその場その場で判断を下し、生きる必要があります。

そこで、人間は生きるために「手元にある知識の範囲で最も合理的な結論を見つける能力」を育んできたと考えるのは自然な流れです。

自分が持っている知識を参照し、総合するとどのような結論が得られるのか、瞬時に判断することができます。

そして、一旦結論が得られるとそれが頭の中で強いイメージとして働き、それを実現する方向に行動が伴っていく。

そんなシステムを持った存在なのだと思います。


このシステムは全体として見た場合、生存のためによく機能しますが、部分部分で見れば結構誤った判断を繰り返しています。

その一つの現われが、新しく何か良さそうな概念を知ったときに、それを手放しで良しとする態度を生む、今回の現象のようなことに繋がるのだと思います。

人間は生きるために手元の知識だけで判断しますし、頭の中で形作られた答えを頼りに行動します。

手元の知識で判断できず、もっと情報を集めなければ意思決定できないような生物はすぐに自然界で淘汰されてしまうでしょうし、高度な情報構造を頭の中で作り、それを実現する力があるからこそ、人間は他の動物にはできないレベルで進化・発展し続けています。

これは種として生きるために非常に有効な戦略ですが、客観的に正しい判断を下すための方法ではないので、様々なエラーや対立を生んでしまう…といったことが起きているのかなと思っています。


「働く大人の自己肯定感」はどうあるべきか?

「働く大人の自己肯定感」に沿った具体的な問いも頂いていたのに、先にこちらの問いを扱ったのは、今の僕の人間観・世界観を語りやすいテーマだなあと思ったからです。

いろいろなことを学べば学ぶほど、人間とは何なのか、世界はどうなっているのか、といった「観」が大きく変わっていきますが、今回頂いた問いをきっかけに、ここ数年思っていることを少しまとめて文字にしてみました。

聞いてもらいたかったことを聞いてもらえて満足しています。笑

こうした今の自分のものの見方をベースに、本論に沿った問いについて思ったことを書いていきます(その方がいろいろと答えやすいような気がしました)。


<社会全体がストレスに対して諦めを感じているという直感について>

ひでさんのお手紙を読んで「なるほど面白いことを考えるなあ…」と思っていました。

基本的にはひでさんが書いていたことには共感的で、たしかに過度なストレスに対して学習性無力感、セリエの疲憊期と言える状態にある人もかなり多いと思います。

特に、一人ひとりの様子を見るに、大きなストレスを受け続けることになれきってしまい、変えることが難しい前提として受け入れてしまっているような事象は世の中に溢れていると感じます。

そういう意味で、「ストレスに諦めを感じている人がたくさんいる」という指摘には賛成です。


その上で、こうした立場に敢えて批判的に向き合うなら、「『社会全体』としてみるなら、まだまだストレスに抵抗しようとしているのではないか」という見方もあります。

取り上げてくださったストレスチェックやコーピングが社会的に広まっているのも、「社会としてストレスに積極的に対処しようとしているからだ」とも言えると思います。

また、本質的にはビジネスにおいてストレスは切り離すことが難しいものだとも思います。

新しいことや大きなことには本能的に避けられないストレスが発生するので、ビジネスで大きな価値を発揮しようと思うとどうしても一定のストレスをうまく扱うことが必要です。

「社内の人間関係が~」「上司がダメ人間で~」というのは論外ですが、変化を生み出すことに付随するストレスについては、扱い方を学び、慣れていく他ないというのも現実な気がします。

ストレスは人間にとって重要な機構ですので、人間が人間である限りストレスから完全に逃れることは難しい気がしますが、考えを深めるにあたって「社会の中で生じるどのストレスのことを言っているのか」をうまく絞り込んで定義することで、何か見えてくるかな…と思いました。

もう少し考えてみたいですね。


<社会人やビジネスシーンにおけるストレスチェックやストレスコーピングの様相>

僕も前職時代にストレスチェックのような問診票に答えた記憶がありますが、ストレスチェック自体に意味がないというより、「これで問題が見えたとしても、結局対処法なんて無いでしょ」という諦めがありました。

全員に一律でテストし、問題を抱えた社員があぶり出されるのは、会社として大きな前進だと思います。

一方、その人の問題を解決するための手段として

■ 産業医と面談する
■ 上司に人事から伝える
■ 必要に応じて異動させる
■ コーピングを学ばせる

といったことが準備されていたのではと推察しますが、どれも根本的な問題の解決にはならないと直感する人が多かったのではないでしょうか。


前職のときの自分を振り返ると、ストレスの原因は「仕事の量が多すぎる」でした。

仕事の量が半分であれば、一つひとつを丁寧にやれて変なミスも起きず、私生活にも妥協せずに暮らせる…と妄想しますが、一人ひとりに与えられる仕事の量は会社の仕組みの問題で、基本的には個人へのアプローチや人事からの働きかけでなんとかなるものではないですよね。

確かに、上記の手段で解決する人もいたと思いますが、少なくとも自分については「そうじゃないんだよな感」がありました。

まして、仕事の量を減らさずにコーピングを会社が学ばせようものなら、「どこまで働かせる気だ!」という反感すらあったかもしれません。笑

そういう意味で、ストレスチェックやコーピング自体に問題があるというより、もっと構造的なところに大きな問題が潜んでいるのだと思います。

このレベルになると「業務量を減らしながら、会社の利益を増やす」という方針を実現するほかなく、それは事業改革やコンサルティングの領域になるので、今の自分の仕事の形にたどり着いたという経緯もあります。


<働く大人の自己肯定感はどうあるべきか?>

以上を踏まえて最後の問いになりますが、働く大人の自己肯定感は「自分というシステムを絶えず更新できる柔軟さを持つ」というのが一番重要なことだと思っています。

先程の会社の例であれば、より効率的な仕事のやり方へと抜本的に変えてみたり、いいチャンスがあれば部署異動や転職も選択したり、済むところや付き合う仲間を変えてみたり…ということが自由自在にできる柔軟な生き方を保つことが有効なはず。

「人間はなぜ判断を誤るのか?」の話にも通じるところですが、自分の現在の在り方に固執することなく、新しい情報、新しい方法に常にオープンであり、自分をメタ認知して自分や環境の変化にあわせてシステム自体に積極的にテコ入れを続ける

月並みな言い方をすれば「変化を恐れない」でしょうか。

目の前の課題に集中することはもちろんですが、常にひとつ上、ふたつ上の視点で作戦を練ることを忘れず、中長期的な視点で変革を起こし続けることが大事なことだと思っています。


僕は日頃、クライアントにも抽象度因果性の考え方を徹底的に仕込んでいますが、抽象度を上げ下げする頭の使い方を体得することと、因果の認識に潜むさまざまな思いこみに気づくことを大切にしています。

こういうことを意識的に訓練すると、自ずと自分を肯定する心理状態が育まれていくのではないかな…と現場の実践で感じています。

今度はこんな話についてもひでさんとお話したいと思いました(次の往復書簡のネタ?)。

 

毎度のことながら長くなりましたが、一通り思うことを書いてみました。

この往復書簡にどこかで区切りをいれるなら僕もここかなと思いますので、最後に一通、ひでさんにはいい感じのまとめになる締めのお手紙をいただけると嬉しいです。笑

最後に変にハードルを上げたでしょうか?笑

雪が降るまでにこの「働く大人の自己肯定感」が完了するかどうかはわかりませんが、気が向いたときに筆を執っていただけたら嬉しいです。

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