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わたしと弟との七月 |シロクマ文芸部 短編
約2500字
手紙にはクレヨンで、丁寧に一色、ただ青く塗られていた。
ふちまで隙間なく。
けれどよく見ると、その塗りつぶされた青のなかに、一羽の白いかもめのような鳥が、小さく飛んでいた。
贈り主の文章さえ読まなければただ青いきれいな絵のようにも思えた。仕事を変えて引っ越したばかりで、段ボールも開けきれていないこのアパートの玄関に、額縁に入れて飾りたかった。
その空の隅にボールペンで走り書きされていた。見慣れた字だった。
「どうぞ御心配など要らずに」
その裏面をかえすと、わたしの住所と電話番号とわたしの名前。切手を貼って投函されていた。
差し出し人の居所や氏名は知っていた。
心配などしていない。弟はたくましく健康に、本当はどこででも生きていける子だから。大丈夫。
むかしから、風邪をひきやすい青白い痩せぎすのわたしとは正反対だった。
あの事件のあと、中学三年生のわたしはその七月に教室で、何度も吐いて倒れた。保健室の先生には「かわいそうに」とメガネのつるを咥えたまま言われた。
「落ちついたら、じぶんで帰りますから」
ベッドから起きようとして、けれど、どうしても身体にちからが入らなくて、その日わたしは床に肩から落ちた。
病院への受診の勧めなど聞かず、けっきょく弟の背中におぶられていく。一年生のあの子はすでに、三年生のわたしの背丈など追い越していた。
弟はもともとあまり話さない子だったけど、ふたりきりになり、もっと話さなくなった。
ただあの子の背中におぶられて、揺られていく。
本当に無口になった弟が、わからなかった。
「降ろしてよ。はずかしい」
弟の学校指定の白い斜めがけかばんに、わたしの黒い手提げかばんが無造作に入れてある。この子はそれを首にひっかけて、さらにわたしを背負って歩いていた。梅雨は終わっていた。
暑かった。
弟はなにも言わず、わたしを背負い、ただ歩きつづけた。長く伸ばしたままの黒髪の、そのころのわたしは、自分自身を直しようもない壊れた柱時計のように感じていた。
「降ろして」
言うことを聞かなかった。だから弟の首を噛んだ。
「見ないほうがいいよ」
警察の安置所で刑事にそう言われた。まだその七月に入ったばかり、梅雨は明けていない夜中だった。
納得できなかった。わたしは、母にかけられていたシーツを震えたまま、自分の手でめくった。早くに逝った父のかわりをしなければならないとおもってしまった。
そして父がこの母を見ずに済んでよかったと安堵した。複雑な形で静止したまま横たわり、その敷布にわたしは血溜まりをみた。母は死んだ。
弟のほうを振りかえった。婦警が弟を抱きかかえ、その身体で視線を遮っていた。
吐き気がした。わたしは叫んだ。
「あたしの弟から離れろ」
身体を抱きかかえるように婦警からわたしは弟を剥ぎとった。
そして額をあわせ、わたしの両目で、弟のふたつの黒目の奥をみつめた。そのまま言った。
「あんた、おかあちゃん、見るかい」
弟は震えていなかった。ただこう言った。
「わからない」
弟が答えを出すまでわたしは目をはずさなかった。
しばらくして、弟はうなずいた。
唇を噛み締めたまま、わたしの目から涙がこぼれてしまった。弟はわたしを胸に抱いた。たぶん、そのときに弟は母を見たはずだった。
「誰だよ」
そう弟は言った。
おかあちゃんだよ。
舌先に味がした。われにかえって歯を離す。歯が深く喰い込み、血が滲んできてしまっていた。この子の制服の白いシャツを汚してはいけないから、だから自分の頬を押しあてた。こんなことで止まるのか、血を留められるのか、わからなかった。
「ごめん、どうしよう」
それでも弟はただ歩きつづけた。何分もあるいて、そうしたら、あの子はひとりごちた。
「おれだけがつらいわけじゃないから」
わたしは自分がほんとうに情けなかった。
家の前に着いて、弟はわたしを降ろしてくれた。わたしは自分の右頬を触れた。
赤かった。
早退したからまだ昼間、川沿いの平屋の家、玄関の鍵をわたしが開けて、台所の戸から救急箱を取り出した。
ちいさな廊下をわたしはふらつきながら戻ったら、弟が、せまくて暗い玄関にうずくまっていた。
夏の外の光が、弟の背中を灼いていた。
あの子は自分の首に当てた右手を離す。そして、じっと自分の手のひらを見つづける。
「おいで」
そう言ってわたしは弟の手を曳いた。重いかばんをふたつ抱えて玄関の鍵を閉めた。弟の首の手当てする。オキシドールが少なくなっていた。消毒して絆創膏を貼る。
そのとき弟が言った
「腹へったよ」
わたしすこし、笑ってしまった。
「そうだね。おそうめん作ろうか」
弟はうなずいた。わたしは手当てを終えて言った。
「シャツも、よかった、汚れてなかった」
弟が言った。
「俺かあちゃん轢き逃げしたやつ時間かかっても必ず見つけて殺してやるから」
あのときから再びもういちど、わたしは弟の両目をみた、そして言ったはずだ。
「おねがい。そんなこと。やめて」
まちがいなく言ったはずだ。
どうしても耐えられなかった、わたしはまた吐いてしまう。弟はどれだけ反吐が服にかかろうとかまわずにわたしの頭を抱いて、撫でてくれた。それでもあの子は言った。
弟は「かならず殺してやるから」と言った。
わたしはせいっぱい、弟のむねのなかで首を振りつづけた。もう言葉が出てきてくれなかった。自分を、だから、どうしようもなかった。
わたしは中学を卒業したあと働きながら夜学に行き卒業したあと就職した。弟は進学せずに家を出て、住みこみの車の整備工になった。何度も説得した。やめてくれと言った。でも弟は二度と本音を言うことがなかった。
だから、いい子だった。誰がなんと言おうと。
中学生だったあのときからも、そのまえからも、家を出て就職したあとも、そうに決まっているのはわかっていた。本当はなにをしたかったのか、わかっていた。
わたしは仕事に就いてから必死に、あの子の替りの人生をどう用意してあげたらいいのか、考えつづけるようになった。
弟は家を出てから、わたしとけっして会わなかった。わたしが二十を過ぎたころ、ふたたび七月にまた夏の夜中に電話が鳴り警察から弟がひとを殺して捕まったと聞かされたときも、なにも驚かなかった。あの子は大人になって、かつて言った、成し遂げたかったことをしただけだ。
ただ受話器を持ったまま、わたしはすこし言うことを間違えた。
「弟は元気ですか」
いまもわたしはただ、弟に会いたい。
やさしいあの子に。
初出掲出 令和六年七月七日
この作品はシロクマ文芸部参加作品です。ここまでお読みいただき、まことにありがとうございました。