『家の夕方から夜、三人について』 | #シロクマ文芸部 短編小説
約3500字
平和とはこんなものじゃないかなと、台所で洗いものを終えて、それを見てわたしは思った。
手の、親指のつけ根のあたりに、流しきれなかった洗剤のちいさな泡がのこっている。それが東向きの窓からの、夕方の空のあかりに照らされ、ひかっていた。
蛇口をひねってそれも水で流して、終わり。こうして母の遅すぎる昼食の皿をきれいさっぱり片付けた。私の時間がはじまる。この台所に隠されている、
(と、わたしが勝手に思っている)
子供用の小さな椅子をひきだして座る。エプロンはそのままつけたまま。
スマートフォンでアプリをタッチして、動物が好きな方たちの画像を眺める。すてきな、わたしが家族と住む古い一軒家とは違うあかぬけたおうちで、ネコちゃんひとりを溺愛している看護師さんもいれば、ワンちゃんもネコちゃんもたくさんいる忙しい女優さんもいるし、旦那さんとお子さんと家族でたくさんのインコを世話されている方もいる。
さまざまなおうちで様々な人々が、動物たちと暮らしている。わたしのうちは母が動物嫌いなのでそれはできない。きっとわたしも無理だとおもう。犬はじっさいには怖いし、猫とは仲良くなれそうに思えなかった。
ただ、このまえから猫みたいな姉のようなひとが、よく夜に訪れる。母と離婚した父と再婚した、その娘。たばこが好きなひとだ。今夜も来た。
「ねえ、ここ鍵かかってないよー?」
玄関からそんな姉の声が聴こえる夕方六時。
「あがんなさい」と母が居間から声だけで返している。
スマートフォンをパタンと閉じて、
(そう、手帳型のこのケースを姉に、通販で母もわたしも買ってもらった。ひとつ千円しなかったけれど、千円札を一枚ずつ姉は徴収した)
椅子を隠した。わたしは玄関に向かう。姉はブーツを脱いでいた。
「いらっしゃいませ」わたしは座っておじぎをする。
「ん」とだけすれ違いに姉はわたしに返した。
また、かっこいい靴を履いてきたなあとおもいながら、三和土の姉の靴の向きを直してから、もういっかい台所に向かう。
居間の座布団のうえで、パソコンで一日ずうっと単行本の装丁をしている母のところへ行って、なにか姉が話していた。わたしが廊下をとおり過ぎるとき、すこし開いていた襖越しに聴こえた。
水を電気ケトルに入れてスイッチを押し、戸棚からコーヒーの缶を取りだす。もうすこしで粉を受けるペーパーが無くなりそうなので、コーヒー屋さんに買い物に行かなくちゃと気付いた。
母が言った。「チエ、ケーキもらったよ」と、顔も出さずに。
わたしが廊下に座り襖を開け、「お姉さん、ありがとうございます」とお礼を言った。「なか、見てもいいですか?」うれしかった。
母に「チエ、いいからお皿にのせておくれよ」と言われ、姉に「チエちゃあん、『おねえさん』止めてよー」と言われる。おんなったらしの男の人みたいな言いかただ。おもしろい。わたしはにっこりと返して戸を閉め、お菓子屋さんのその白い箱を台所に持っていく。ふいに姉を六年前に亡くしたときのことを思いだす。それを忘れるよう努めた。
電気ケトルのスイッチがポンと言って切れて、お湯が沸いたことをわたしに教えた。
電気をつけた台所で、ひとり箱を開ける。
チョコレートケーキがみっつ。小さなミントの葉がそれぞれにちょんと配らわれていた。お姉さんはよほど今夜コーヒーが飲みたかったんだな、と、粉もペーパーも切らしていなくてよかった、そう思う。
家にふたつあるうちの、取っ手が弱々しくて小さいほうのヤカンに電気ケトルのお湯をうつして、ペーパーを敷いたドリッパーの中心に、そろりとすこし垂らす。コーヒーの粉が、すこしだけお湯を含んで、ふっかりと盛りあがる。待ってから、もういいかと思って、もうひとつお湯をつぐ。
そして姉が来た。脱いだストッキングをぶんぶん振り回しながら廊下を歩いてくる。火をつけないままだけど、すでに咥え煙草。
「チエちゃああーん」
誰の真似なんだろう。ちょっとおかしくて笑ってしまう。まだコーヒーをつくっている最中なのだけれど。
「まだボクのお茶できないのおおぅーん?」
もうどうしても笑ってしまって、「ごめんなさい、まだなんです」と答える。もう蒸らしはおわったから、あとはヤカンのお湯を直ぐに注ぎ足していくだけ。
「ダメじゃないかーそんなんじゃあー、お客さんのお茶は早く淹れてくれたまえねえー」姉はシンクの横のカレンダーの下、タイルの壁によりかかる。
「お姉さん、ひどい」わたしは笑いながらドリッパーを外して椀に置く。
姉は換気扇のスイッチを勝手に引いて、ライターで煙草に火をつけた、天井をあおいで、喫って、姉はすこしわらった。
わたしはマグカップたちを戸棚から出す。陶器の母の指定ものと、わたしの鳥柄のと、姉が持ちこんできた、白地に青の花柄のマグカップと。
「あたしそんな奴ラと仕事してんの。えらくない?」
注ぎ分けたら姉が鳥柄のマグカップで飲みはじめてしまった。
「あ、これチエちゃんのだよねー、いい?」
ちょっとイヤだったけど「はい」と言った。だから姉はニンマリとするのだ。わかっているけど心が隠せない。そんなことくらいわかっている、だからさっさと灰皿を出す。
居間で『ウルセエッ!』と言ったそのあと、母がパソコンのキーをばちーんと叩いた音がした。姉が怪訝な顔をする。わたしは流しに灰皿を置いた。
「なにあれ?」と姉が聞く。
「そろそろ今日のお仕事がひと区切りなんです、きっと」
居間の襖が開く。ステテコにTシャツすがたの小さな母が台所へトタトタと歩いてきた。
「コーヒー」
「できてます」わたしはお盆にのせたマグカップを見る。陶器のマグカップを母がとる。そして「煙草ちょうだいよ」と姉に言う。
「ええーぇ、あたしのもう無くなりそうなんですけどー」
「居間の仏壇にセブンスターあるからあとであげるわ」と言って、母はひとくちコーヒーを飲んだ。
「あんたが居間に戻ればいいじゃんよ」
「ちょうだいよ」
ぶすっとした顔の母に負けて姉が箱から一本出す。
どきなさいよと母は、わたしをのけてわたしが閉めた元栓をあけてコンロの火をつけ、自分の煙草にうつした。
「灰皿」
「そこです」わたしはシンクのなかの灰皿を指す。
軽く、ひゅっ、と母は呑んだ煙草のけむりを吹いて換気扇に吸わせる。そして静かにコーヒーを飲む。ため息をつく。灰を落とす。
わたしは母のこういう仕草が好きだ。
だから、奴隷みたいだと誰に言われようと、わたしはこの家でコーヒーをいれることが苦だとは思わない。姉はもちろんわたしの家事のことなどなにも言わない。だからわたしもコーヒーをいれていられる。
たまに客が来る。そういうときは丁寧にコーヒーをお出しする。礼に失しないように、そうすると、客はわたしのことを不気味がる方が多い。そして大抵すぐ帰る。そういう手筈だけはわたしにもわかる。そうするべきかどうかは、じつは母の雰囲気ひとつなので、わたしのせいではないとおもう。去れというのはこの家の意思で、それは対話ではない。
小盆のマグカップにコーヒーが入っているとだけ、わたしが告げるだけのいまなどが、例えばわたしたちのお茶の時間だ。誰にでも共有できるものではない。
距離の良さというか、心地良さがもともとは苦いコーヒーの、いちばん大切なことだとわたしは思う。そして、しかし、わたしはコーヒーを、わたしの鳥柄のマグカップは、姉にいま使われている。
「あの、これで、飲んでいいですか?」そっと青い花柄のマグカップを指す。
「ダメなわけないじゃん?」
姉はどうしてそういうふうに言うのだろう。
「チエ、からかってんだよ」
「うん」と母にわたしは頷く。
わたしは、ひとのマグカップでコーヒーを飲んだ。
だから、
わたしが変な顔をしているのはわたしにだってわかる。
そんな、
覗きこまなくてもいいと、わたしはふたりに言いたかった。
そしてこの台所で立ったまま三人、チョコレートケーキを食べた。おどろくべきことに、今夜はみんな手づかみで食べた。
姉がそうして、母がそうして、わたしがびっくりしていたので、
「チエちゃん、食べなよ」と姉が言う。
「あたし食べてやろうか」と母が言う。
「やめて」とあわてて叫んで(本当にそうすることがあるからだ)、箱のひとかけらを掴んで、口に運んだ。
すこし咽せて、顔を伏せた。むぐっと、くちのなかのケーキが出ないよう手で塞いだ。
「つわり?」と姉が言う。母が蹴った。
「痛ッてえっなナニすんだよ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ馬鹿が」
「はいはいすみませんでした」
そんな二人のやりとりはどうでもいい、コーヒーを口にすこし含んで、ケーキを胃まで飲み下した。
そしてわたしは気がついた。
このケーキはおいしい。
夕暮れどき、手にひかる泡をみつめてから二時間も経っていない。
顔をあげる。夜の家に、ふたりの顔が見える。
わたしはこのふたりが好きだった。
わたしのこの平和がいつまでも続きますように。そう思った。
他のことなどどうでもいいから。
「このケーキ、おいしい」
わたしはそう言った。
お読みいただき、ありがとうございました。
初稿掲出 2023年8月5日 夜
©︎かうかう
この作品は #シロクマ文芸部 のお題「 #平和とは 」に参加させていただきました。