愛は色あせる
『アニー・ホール』という映画がある。ウディ・アレンによる1977年の作品で、まだ人間が火を発見する前の、古代の映画だ。20歳そこそこのわたしはこの映画をいたく気にいって、とんでもない回数みていた。ハッピーとはいえないお話なのだけど、当時のわたしにとっては、なんだか居心地がよかった。一日中みていた日もある。あのころの傷ついたわたしの心を、突き刺すような"普通の"空気から守ってくれる、ぬるい水みたいな感覚だったのかもね。いまとなっては、もうわからない。よい映画なので、ぜひ新しくみてみたり、みかえしてみてください。
とにかく、この映画のなかで、とある通行人がこんなことを言うシーンがある;
直訳するなら、「愛はだんだん消えていくものだ」「愛は薄れていくものだ」あたりが妥当だろう。昔のディズニーアニメの場面転換なんかを思い浮かべてみるとわかりやすいかもしれないね。じわーっと画面が暗くなって、それまでの出来事は消え去り、新しい出来事がおこる。つまり、「愛」がなくなって、「なにか」が生まれる、ということだ。
はたして、ほんとうにそうだろうか?
なにかがなくなる、ということはどういうことか、ちがったものについて直感的に考えてみよう。「愛」だとちょっとむずかしいから。
いまあなたの目の前にある、コーヒーを例にあげよう。
あなたのおかしな生活様式のおかげで話が複雑になってしまった。だけどわたしはあなたの信念を尊重する。すべては大丈夫なのだ。
よりシンプルに考えなおそう。
なにかがなくなる、というのは、こんなふうにあらわすことができるだろう。
このうち、②の部分はあまり重要ではないかもしれない。飲んだって、こぼしたって、だれかにあげちゃったって、結果として③ということになる。だからあなたが素足で土の上に暮らしていかなければならない呪いを自らに課していたとして、なんの問題もないのだ。ちょっと楽しそうだけどね。
つまるところ、ここでは、①と③が重要な要素だ。なにかがなくなる、というのは、なにかがある状態がそうでなくなる、ということができる。
なにかがなくなるためには、その対象がまず存在していなければならない。あたりまえのことですね。
では、なにかがある、なにかが存在している、という状態はどういうことなんだろう。もっと直感的な話をするなら、われわれはなにかがある、とどんなふうに認識しているのだろう。
これらの状況も、シンプルに整理してみよう。
なにかがある、というのは、こういうことだ。
またしてもii.の部分はけっこうどうでもよいことがらかもね。あなたが魂を込めてコーヒーを作ろうが、よくわからない生き物がよくわからない定義をしようが、結果としてiii.ということになる。
なにかがあるためには、そのまえに、その対象がまず存在しないことが必要だ。これもある意味、直感的にあたりまえのことですね。
思い出してほしい。わたしはさきほど、
なにかがなくなるためには、その対象がまず存在していなければならない。
といった。
つまり、なにかがあるとかなくなるとかの話をしようとするとき、にわとりが先かたまごが先か、というような話で、「最初」は「ある状態」なのか「ない状態」なのかどっちなの?という話になってしまう。
結論としては、「どちらでもいい」とわたしは思っている。「わからない」といってもいいかもしれない。ちょうど、わたしがあのころの――『アニー・ホール』を狂ったようにみつづけていたころの――わたしの気持ちをもう、わからないのと同じように。時のなかで、ある一点だけを切り取るなら、その地点においてのみ「ある」「なし」の如何は意味を持つだろう。だけど、われわれは生きていくうえで、時のなかを漂っているのであって、そのなかのある一点のみにとどまっているわけではない。
そうはいうものの、ある一点とある一点の変化を語るべき状況がこの世にはあったりする。むしろ、社会生活というのは、それのみに焦点をあてて回っているといえるだろう。
原初のとき、そこが「ある状態」なのか「ない状態」なのか、われわれにはわからない。わからないから、わかったふりをして、社会のなかで過ごすのだ。あたかも、時間という、ある一点の連続のなかに暮らしているのだ、「愛」は生まれたり、消えたりするのだ、というような顔をして。
それがほんとうかどうかって、どうでもいいことがらなのだ。だれかが正しいからそのほかは間違っている、というのは暴論だろう。
そのような意味で、あらゆることがらは、それぞれ、ひとつの比喩表現だ。
語ることは無限にあって、語られるべきことは、ひとつもないとわたしは思っている。
「愛」は生まれも消えもせず、ただ色あせていくのみである。色あせる、というのは、なくなっていくということではなくて、わからなくなる、ということかもしれない。
あのころのわたしは、映画を観る気分じゃないな、というときにだけ大学へ行っていた。反社会的だね。
カントやハイデガーといった偉人たちについて講義していたとある教授が、「長いこと一緒に暮らしていると、奥さんのおなかが鳴ったのか、私のおなかが鳴ったのか、わからなくなる。それがいいんだ。」と言っていたのを、いまでもはっきりおぼえている。冷たく湿った教室の空気に気づかれないよう、それにひとり、ひどく共感したことも。哲学の怪物たちの言いたいことも、そこにあるような気がした。いまでもそう思っている。これは勉強をさぼったわたしの言いわけかもしれないけれど。
いまのわたしは、えらそうに結婚なんかしちゃって、大人のふりをして暮らしているけど、そういう意味では、あのころと何も変わっていない。
あらゆることがらは色あせる。それがいいんだ。
そして、つまるところ、それだけなんだ。