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しあわせについて

カノチャンである。

散々じぶんの生きづらさやそれの根源について綴ってきたが、わたしは「じぶんは不幸だ」と思ったことは一度もない。

いまの状態は決して幸福だと胸を張っていえるものではないが、かといって「不幸か」といわれると、それは違うなあ、と思う。

家があるから、ご飯がたべられるから、学校に通えるから、しあわせ?
結婚してたら、こどもがいたらしあわせ?
健康体でいられることがしあわせ?
命を脅かされない日々を暮らせたらしあわせ?
それって世界の何処かの誰かとくらべての「しあわせ」だ。
わたしはそんなものはくだらないしナンセンスだと思う。

それに、大抵そういうものはじぶんがそう思ってるんじゃなく、ひとにそう思わされている。
さらにナンセンスだ。

じぶんがしあわせであるか否かはじぶんが決めるし、全世界のニンゲンがそうであれと思う。

ひととくらべる人生になんの意味がある、なんの価値がある。
くだらない、それに一喜一憂することも、悩むことも。

じぶんが不幸だと思えばそれでいい。
じぶんがしあわせだと思えばそれでいい。
家があろうとなかろうと、餓死しようと、学校に行こうと行かまいと、パートナーがいようといまいと、どうでもいい、じぶんが思うことがすべて正解だ。

すきなように生きて、すきなように死のう。
そう思えれば、誰にも邪魔されないじぶんの人生だ。

上手くいくこともいかないこともある。
でもすべてはなるようにしかならない。

世の中にはセンスも才能も必要なことは必ずあって、得られないものもある。
だから「不幸だ」というのなら、そうなのだろう。じぶんがそう思うなら。

わたしにとってのしあわせは、しあわせだなと思った時がそれで、それ以上もそれ以下もない。
きっとこれからもそうして生きてく。

間違って死んだとして、勝手にひとを不幸者にはしないでほしい。
生きるけど。間違わないけど。

しあわせについてです。

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