カノチャンである。 あらゆるトラブルからPTSD的な状態になり諸々の症状がでてしまったが故、 先日薬の一部を増量したところ、落ち着くどころか脳内があまりに無になってしまいこれまで以上に何も出来ずにいる。 薬を増やすと日中のだるさがでてしまうけどどうする?といわれて、「間違えて死にたくないのでだるくてもいいです」といった。 薬が増えてからは脳内が無なので、実感出来るくらいにはトラブル由来の傷が癒えてきている気はする。 前は乾きはじめてカサブタになるかな?ってくらいの傷口
脳になにも言葉がなくなった 漠然とした死にたさと消えたさと怒りと憎しみとかの感情だけがある なにも思考できないじぶんには価値がない
カノチャンである。 散々じぶんの生きづらさやそれの根源について綴ってきたが、わたしは「じぶんは不幸だ」と思ったことは一度もない。 いまの状態は決して幸福だと胸を張っていえるものではないが、かといって「不幸か」といわれると、それは違うなあ、と思う。 家があるから、ご飯がたべられるから、学校に通えるから、しあわせ? 結婚してたら、こどもがいたらしあわせ? 健康体でいられることがしあわせ? 命を脅かされない日々を暮らせたらしあわせ? それって世界の何処かの誰かとくらべての「し
カノチャンである。 睡眠時にみる夢と、将来の夢、どちらも日本語で「夢」と呼び、英語では「dream」と呼ぶ。 それは何故なのだろう。 まだ調べていないけど不思議に思っている。 わたしの睡眠時にみる夢は、大抵過去の嫌な記憶から構成される。 しかもただ嫌な記憶ではなく、不完全燃焼で終わった記憶だ。 それ故、じぶんが納得した形で動けたと思っているであろうことに関しては夢に一切でてこない。 夢にでてくるNO.1人物は、中学生の3年間わたしの担任を務めた女性教師だ。 3年目のほ
カノチャンである。 みなさまお気付きであろう今更のことだが、わたしは頑固である。 あらゆる方向からの視点をもって考えに考えを重ね導き出した答えが、他人のひとことふたことにそう覆されることはない。 「あなたはそう思うかもしれないけど、わたしほどに考えた上で、知った上でいまものをいってる?」と思うだけで、大概のことはわたしの核の部分から弾かれていく。 でもそれでも、ふとした時、スっとはいってくる言葉は必ず存在する。 「その視点はなかった」と思わされる瞬間が。 先日、昔か
カノチャンである。 わたしの夫は、なんともひとことでは表せない不思議なニンゲンだ。 「やさしいひと」「真面目なひと」「朗らかなひと」そうだけど、しっくりこない。 メタルとベースとお酒をこよなく愛する妖精、とでもいおうか。 妖精というのも、フワフワとなにも考えてないようで考えていて、また考えているようで考えていない。 理屈っぽいわけではないのに理屈でものを捉え、感情的になることはなくてもわたしのために笑って泣いてくれる。 わたしは彼がいなければ、出会ってからの数年で5回
カノチャンである。 前回の記事をあげたあと、親しくしているともだち2人から「あれを読んだけど、わたし、あなたの嫌いな人種かもしれない!」「わたし、あなたに対してひとつ対応を間違っていたかもしれない。」と連絡がきた。 そもそも前回の記事で書いたわたしがこうされたくない、ああいうひとは無理だ、のどこにも当てはまらない、 むしろわたしにとってはこれ以上ない「正解」でいてくれるひとたちだったから何事かと思った。 でも、話を聞いたら意味が理解できた。 まずひとつめ。 「死ぬなら
カノチャンである。 敢えて書く必要も誰に知ってもらう必要もなにもないのだけれど、 あんだけTwitterで死にてーだの自殺未遂紛いのことだの不穏を撒き散らしておいて、 こいつァなんなんだ?って感じだよなと思うのであくまでも敢えて、書く。 わたしは双極性障害という病気を患っている。 いわゆる躁鬱病というやつ。 とはいえ、この病気によって知能や状況把握能力が著しく低下したり、妄言や幻聴幻覚せん妄等の症状や、とにかくみなさまに不信感を抱かせるような状態になることはないのでそこ
カノチャンである。 わたしは文章に対する、というか、言葉に対する意識がつよいのだと最近感じはじめた。 相手の本当に伝えたいことは言葉に表れると思っている。 真意がどうあっても、その言葉を選んだところに潜在的な意識を感じて真逆に捉えたり。 言い回しや、不意に出た言葉、そこに真実がある、と思っている。 でも、世の中はとってもテキトーだ。 「そういう意味じゃない」がまかり通るし、テキトーな言葉でテキトーな何かを生み出したり生み出さなかったりする。 そんな世の中は、わたしに