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想像力について

カノチャンである。

前回の記事をあげたあと、親しくしているともだち2人から「あれを読んだけど、わたし、あなたの嫌いな人種かもしれない!」「わたし、あなたに対してひとつ対応を間違っていたかもしれない。」と連絡がきた。

そもそも前回の記事で書いたわたしがこうされたくない、ああいうひとは無理だ、のどこにも当てはまらない、
むしろわたしにとってはこれ以上ない「正解」でいてくれるひとたちだったから何事かと思った。

でも、話を聞いたら意味が理解できた。

まずひとつめ。
「死ぬならひとりで死ねよ」について。

飛び降り自殺の際にまったく関係のないひとが巻き込まれて亡くなるケースがある。

「わたしはそれって殺人じゃないかって思うの」というともだちの、その気持ちは痛いほどよくわかるし、同感だ。

わたし自身も、そういうニュースがあったときに感情移入するのは、その場をただ通行していただけで急にいのちを失った無関係のひと、またその周囲のひとに対してだ。

想像もしたくないほどの感情がおそってくる。
そしてそんな時、わたしは飛び降りた側をどうしても擁護しきれない気持ちになる。
飛び降りた側よりも、巻き込まれた側があまりにいたたまれないからだ。

また、「死刑になりたかった」という理由の無差別殺人。
これにはどんなに精神状態や家庭環境などを考慮しても、わたしは「死ぬならひとりで死ねよ」としかいえない。

自分本位な理由で、故意に他人のいのちを巻き込むことは許されてはならない。
手が届いて許されるのはじぶんのいのちだけだ。

ただ、電車による人身事故はまた少し別物と思っている。

まずじぶんの実体験として、職場で無視されたり、毎日終電帰りで頭が回らなくなった時期に、
「次くる電車に飛び込めば、もう会社に行かなくて済むんだよなあ」という考えが頭を過ぎり、我に返ってゾッとしたことがある。

我に返らなかった時が彼らなのかもしれないと思ってしまう。

それに、特に都内近郊の通勤ラッシュのホームは駅によってとんでもなく混む。
単純によろけたりぶつかったりで落ちてしまった事故の可能性だってあるだろう。

電車による人身事故は、自殺だとすれば計画性のない衝動的なものか、あるいは思考力が低下しすぎてその道しかないと思い込んでしまったケースが多いのではないかと思っている。

その上で、わたしが無理だと思うのはいわゆる「死体蹴り」だ。

昔の職場にいた同僚2人が、人身事故で遅れてくるたび、
「ほんっと最悪なんだけど。死ぬならひとりで死ねよ!」
「わかる〜、なんでわざわざ最期にひとに迷惑かけるわけ?」といった。

そもそも事故なのかも、自殺なのかも、そうだとして迷惑をかけてやろうと飛び込んだのかも、何も知らないのに。

人身事故による電車遅延で出社が遅れたり、車内が混んだり、迂回ルートを探さなければいけなくて「困る」のはわかる。
だとして、ひとの死を前に「迷惑」とはっきり言い退ける。

わたしはそんな「想像力のなさ」が嫌でたまらなかった。

ともだちにはそう話して、認識の齟齬でしかないから安心してほしいということを伝えた。

そしてもうひとつ。
「わたしの病気を理解してほしいなんて思わない」について。

もう1人のともだちが「実はわたし、あなたに嫌な思いをさせたくないからあなたの病気を勉強してた。」といった。
ごめんけど、それってただのいい奴。

これに関しては、完全に実体験に基づく。
こちらがなにも言わなくても、本人の体験から言っていいこと、わるいことの判断など任せられるものだとお互い思っていたであろう相手が、実はそうではなかった、ということがあったからだ。

わたしというニンゲンありきで、病気も理解していてくれるなら、もちろんそれは有難いことだ。

前回の記事は、そこまで深い付き合いではないひと向けの、自己紹介として書いたものになったのだと後から気付いた。

そしてそう話してくれたともだちは、恐らく病気のことを勉強しなくとも、わたしを傷付けることはないだろう、と思っている。

先に書いた実体験のくだりの二の舞になるのでは?と思われても仕方がないが、ここには明確な違いがある。

それはまたしても「想像力」だ。

実体験の中で感じたことはとにかく相手の「想像力の欠如」だった。

付き合いの中で違和感を覚えることは多々あったが、スルーしてしまっていた。
そういう関係は、すこしずつ歪み、破綻するのだと学んだ。

不特定多数の他人に理解を求めた時、その中に1人でもそんなひとがいたなら、そういうことが再び起こりかねない。
だから敢えて「理解してほしいなんて思わない」と書いた。

理解してくれている風で、「わかるよ」といわれて安心して、
でも実はなんにもわかってなくて傷付けられるくらいなら、いっそなんにも知らないでいてくれ、ということ。

「想像力」があれば、わたしの病気を知らずとも、理解せずとも、付き合いの中でわたしは傷を受けずに済むだろう。
もし仮に傷付け傷付くことがあったとしても、きっと関係は修復できる。

こちらもこのくらいのことは普通に考えてわかるだろう、というような過度な期待という名の「想像力のなさ」を持つことは、もうしないようにしたい。

「想像力」は、相手を思いやること、じぶんの言動に責任をもつことの基本だと思う。

でも、残念なことにそれを持つのは少数だ。
それがわたしの感じる「テキトーな世界」。

想像力についてです。

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