夫について
カノチャンである。
わたしの夫は、なんともひとことでは表せない不思議なニンゲンだ。
「やさしいひと」「真面目なひと」「朗らかなひと」そうだけど、しっくりこない。
メタルとベースとお酒をこよなく愛する妖精、とでもいおうか。
妖精というのも、フワフワとなにも考えてないようで考えていて、また考えているようで考えていない。
理屈っぽいわけではないのに理屈でものを捉え、感情的になることはなくてもわたしのために笑って泣いてくれる。
わたしは彼がいなければ、出会ってからの数年で5回は死んでいただろうと本気で思っている。
夫にはパーフェクトな自己肯定感が根底にある。
それ故に例え理不尽な目にあっても(理不尽だなあ……)としか思わない、という。
自己肯定感というのはなかなか自分で身につけることは難しい。
夫のそれも家庭環境に由来すると思う。
かといって、甘やかされてきたわけでもなく、なにか特別な教育を受けてきたというわけでもなく、ただ健全な親に、健全に育てられてきたニンゲン、という印象だ。
わたしも親にはたくさんの愛情を受けてきたが、いろいろな事情で家庭自体はいわゆる機能不全家族だった。
その中で気付いていなかった淋しさや欲求があったのだろうと思う。
わたしの自己肯定感はなんだかとっても歪だ。
それから、夫は共感性が乏しいというわけではないのに、他人の感情に引っ張られることがない。
他人というのはもちろん家族であっても、じぶん以外、「他者」という意味だ。
他人の感情に引っ張られないことは、なかなか難しいことなのではないかと思う。
じぶんが特に他人の感情に引っ張られるタイプなので一般的なラインがわからないけれど。
とにかくわたしはそんな夫に泣きながらも既にひとり分析済みの愚痴をたれ、感情をぶつけ、
それを適度に受け止め適度に受け流してもらい、きょうまで生きてきた。
本人の愚痴等は基本聞いたことはなく、あったとして理不尽な目にあった「報告」でしかなく、わたしはいつも代わりに怒った。
本人に「怒る」という発想がそもそもなく、嫌だったなあ、という不快感で終わり、わたしは夫を嫌な目にあわせた物事に対して「怒り」が湧くから怒る。
そんな夫が、人生ではじめて怒った。
恐らく本人はそれが「怒り」だと認識していないだろうと思う。
それはわたしが首を吊った日だった。
首を吊ったわたしに対してではなく、首を吊る原因となった相手に、夫は怒りを向けた。
わたしはそれが、うれしくもあり、かなしかった。
こんなことで夫にとってはじめての感情を生み出してしまったことはかなしく、それでもそれだけの感情を生み出させる存在で在れたことはうれしかった。
「うれしい」と感じるじぶんの自己肯定感の歪さには絶望を感じた。
じぶんが夫にとってどんな存在かなど、いくらでもポジティブな内容で感じとることが出来る位に、日々愛をもらっているのに。
そしてわたしは、はじめての「怒り」を抱える夫に、戦ってもらうという形で守ってもらおうと思った。
いままで、わたしはわたしのために、ひとり戦ってきた。戦ったあとの傷を、夫と共有してきた。
でももうそれは無理だった。
癒してもらうことで守ってくれていた妖精のような夫に、わたしはいま戦うことを求めている。
それはわたしのエゴなのかもしれないが、上からいえば、「怒り」というものを、正当な方法でキチンと相手にぶつけることをしてほしい、と願う。
思ったことを相手に伝えること。
誰かのために抱いた感情の尊さ。
主張を守るために戦うこと。
全部引っ括めて、実際に行動すること。
(これらが必要なのは、怒りに起因することだけではないけれど。)
ある時夫がわたしに、「報われない正義をもっているよね」といった。
わたしはその言葉にいままでずっと救われてきた。
報われなくても、正しくあること。
勝ち目がなくても、間違ったことには屈しないこと。
それを誰に愚かだと笑われても、諦めるんじゃなく、誇っていていいんだ、と思えた。
そして、夫にもわたしの「報われない正義」を、一緒に守ってほしい。
報われないが故に傷を負ったわたしをみてはじめて「怒り」を抱いてくれた夫に、
わたしははじめてそう思った。
かなしくも、こうしてわたしたちは少しずつ夫婦になってゆくのか、などと思った。
夫婦って、夫って、妻ってなんだろう?って思っていたけど、
「病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、夫として、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
これを、誓った相手なのだ。
夫についてです。