退廃美を信じる精神性について

頽廃というのは良いものじゃない。決して、憧れるようなものじゃない。頽廃というのは、情熱のない者が縋る、唯一の美なのだ。
浮世には善人と悪人がいる。善人というのは、普遍的な理想の頂点に立つ、純粋なる善、無意識の善のことだ。悪人というのは、それ以外。悪人も千差万別。悪の自覚がある悪人。自覚のない悪人。こいつらの差は、無意識と意識の中に、ほんとうに善を焦がれているか否かだ。自覚のないやつはだめだ。ほんとうの阿呆の快楽児。理想の反逆者。われわれみたいな悪人は、せめて悪の自覚をするべきなのだ。

そして頽廃は、自覚のある悪人が、善を焦がれた結果だ。私には善を備えるだけの器がない。私の身の内に、善というものが住んでいない。このまま、悪の道を生くとしても、どうか私の望む、善に近いものがありますように。
平穏がありますように。
そういう、諦念の末に望むものが、退廃美なのだ。

これは、くだらない枠組みというか、ジンクスに囚われているだけなのだろうか。自分のやりたいようにやる、それだけではないのか。
そう思うものの、人はやっぱり、善に沿って生きるべきだよ。きっと普遍的な理想というものがあって、その理想には、皆の思う道徳も含まれている。普遍的な理想が無意識の内に達せられることが純粋で、純粋性が理想ならば、倫理と自省とが全てにおいてきちんと働かなければならない。

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