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なぜ、対話をするか。

自己開示抜きの一般論だけの言葉のやりとりを、私は対話だと思っていない。

自己開示と言っても何でもかんでも言いたくないことまでさらけ出すことではなくて、自分がなぜそう思うのか。いまこの瞬間に自分は何を感じているのか。その背景にはどんな経験があるのか。

相手の言葉の背後にそれが見えた時に、その言葉の意味が自分の内側深くに降りてきて、意見や信念を超えて相手の何かに触れることができて、自分も自分の枠組みを超えることができる。

それを目指そうとしないで、どこかで借りてきた知識や誰かが言ったような言葉のやりとりをしていても不毛だとしか思えない。

自分の言葉を、自分の感じていることをそのまま言うのは怖い。
権威に裏付けられているわけでもないし、誰かが正しいと証明してくれるわけでもない。
もしかしたら、その場にいる人全員とは異なることを感じていて思っているかもしれない。
その時にその言葉を発するのは恐怖だ。
だが、その全員と違う一人の声に耳を傾けることのできる場でないと意味がないと私は思っている。

私はこの10年くらいでいろいろな場に参加したけど、カリスマ的なファシリテーターがいると、場が少数意見を言えなくなるのを多く目撃してきた。
特にファシリテーターに対する違和感を表明する人がいる時には、場は途端に自由度を失う。
(けっこう、暴力的な場をいっぱい見てきましたよ。人気のあるあのファシリも、このファシリも)

カリスマ的なファシリテーターが作る場には、そのファシリテーターのファンというか信者が集まる。そういう場では個々人が自分の意見を持てなくなってしまうのだ。

カリスマに承認されることを求めてしまい、自分の中の違和感を消そうとする。
そういう場の気持ち悪さに敏感な人間が下手にそれを表明しようものなら、大好きなカリスマに反旗をひるがえす場を乱すものだとして、排除されたり、露骨に無視されたりする。

これは小さな場という単位の話だが、これはコミュニティにも社会全体にも当てはまることではないだろうか。

どうやったら一人ひとりが自分の固有性と、自分の力と、自分の言葉を取り戻すことができるか。
外側の権威に頼らずに。
(自分も含めて)

私が対話の場を作る関心はそこにしかない。

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くりはら せいこ
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