毎日毎日、日々は続いていく。そんなことは、誰彼もどこかに潜めている、常識の中に埋め込まれているわけであるから、知らない人はいない。けれど、知りたくない人だっている。自分も、何となくの日常という繰り返しを生きていると、どこか、明日があるという事実を知りたくない自分が生まれてくることがある。
日常のみに関わらず、その他の繰り返し作業と言われるものには、どこか飽きが来るわけであって、無論、その意欲と飽きのサイクルもまた、繰り返しといえる場合もある。
時々自分は、こういう「繰り返し」というものに囚われているように思うことがある。これは、いい意味でも悪い意味でも、繰り返しという監獄の中で、ニヤニヤしながら生きているように思うのだ。繰り返しがあるおかげで、ある程度行く先が担保されているというのはあるけれど、その反面、だからなんなんだって言い捨てて、脱獄したくなるときもある。
そんなことを思いながら、最近、こんなことに気づいた。こういう、繰り返しへの苦しみや諦観って、非常に人間的で、美しいなと言うふうに、思えるようになった。これはある種の容認といったところだろうか。人間は、あらゆるものを相互に、或いは自己で容認し合いながら、生きている。それと同じで、なんだかんだ言ったってあるもんはあるんだから、認めるしかないよなってなる必要がある。
いつか曲にしたいなと思った。
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