「助けてくれる存在」と鬱漫画
鬱漫画には、しばしば主人公やメインキャラを「助けてくれる(あるいは助けようとしてくれる)人・ペット・死者・団体・機関・記憶・物体等」が登場し、物語の中で重要な役割を果たすことが多い。今回はこの「助けてくれる存在」の機能・役割の分析、そして「助ける」という行為が鬱漫画にもたらす効果について考察を試みる。
そもそもなぜこの「助けてくれる存在」という項目を設けたかというと、多くの鬱漫画においてこの援助の手を差し伸べる者の存在は重要で、物語の結節点、あるいはその後の鬱展開の深度を大幅に飛躍させる存在であるからである。しかしその形態は、親や友人、ネットで知り合った他者などの人間やペットなどの生物から、本や映画、お守りなどのような物質、はたまた神や妖怪、妖精などの非実在の存在、あるいは過去の記憶や思い出のような観念であることもあり、非常に多様である。ここではそれらをひっくるめてひとまず「助けてくれる存在(Someone who/which can help;略してswch)」としたい。
しかし、同時にいくつかの注意を要する。まず第一に、今回はあくまで助けてくれる「存在」を対象としているため、時間の経過や状況が解決するパターンは除く必要がある。以下では具体例を示すのだが、その際には上記の事例や特定の存在を指摘できない場合、swchを「—(なし)」と表記する。
第二に、そもそも対象が鬱漫画であることから、往々にしてその「助けてくれる存在」は援助の手をどのような形であれ、高い確率で振り払われることが前提となっている(つまり、結果的には助からない/返って状況が悪化する)。そのため、逆説的に言えばどんなにたわいない援助の手であっても、それはswchとしてカウントしうるものとする。
実際の鬱漫画の中の「助けてくれる存在」
ここでは、以前取り上げた実際の鬱漫画上位30件(詳細は拙頁「鬱漫画の系譜ーー具体的に鬱漫画とはどのようなものか?」を参照)を対象として、主人公にとっての「助けてくれる存在(swch)」の具体事例を挙げてみたい。
なお、分析の都合上一部ネタバレ要素があるため、その点は各人の判断でご注意願いたい。またオムニバス形式に話が展開する作品は、個々の事例ではなく物語全体を通じた設定の中で生じるswchに該当するもののみを対象とし、一概に断定できないような場合は今回は取り上げない。
鬱漫画の中の「助けてくれる存在」の機能と意義
精神的援助と物理的援助
こうして並べてみると、近年の鬱漫画における「助けてくれる存在」は多様であるものの、いくつかの考察が可能である。
まず、近年の鬱漫画におけるswchの最もわかりやすい例である『タコピーの原罪』におけるタコピーの存在から話をはじめよう。この物語は、タコ型地球外生命体であるタコピーが、学校で壮絶ないじめを受ける主人公の少女しずかを助けるために奮闘する少女と宇宙人の交流譚として描かれる。この物語の鬱漫画としての要は、しずかが求める援助は精神的・心理的援助(友情・優しさ)に裏打ちされていることが前提である(ことが読者全員に暗黙裡に理解されている)にも関わらず、文字通り共感能力の皆無である「宇宙人」のタコピーが「精神的援助がないため結果そうなってしまったこと」を解決するための物理的援助の手を差し伸べ助けようとする点にある。当然それらはかみ合わず、結果何度も破綻(=主人公の死)が繰り返されながら物語が進行する(物語設定自体も、主人公の死→出会いの場面まで巻き戻るといったある種ゲーム的設定によって、人命を資源化して考える思想に裏打ちされており、優しさや愛情といった情緒がテーマとなっているにも関わらずままならない世界のあり方(=鬱展開)を高める要素となっている)。
この事例からわかることとして、鬱漫画における「助けてくれる存在」を考えるために必要な要素には、そこで求められている援助が、
精神的な援助であるのか(例:愛情、友情、恋愛感情の有無、優しさ・親切心・正義感・罪悪感の正常な解消・義侠心等)、
物理的な援助であるのか(例:満足な衣食住、親の在不在、暴力の介入度合、所持品の破壊や紛失等)、
という点が関わってくることがわかる。ただし、当然だが現実世界においても鬱漫画世界においても両者は通常複雑に絡み合っているため、片方がかけるともう片方も引きずられるように援助が必要になる場合が多い。むしろ、どちらか一方のみの援助を徹底して扱う作品はまれであり、今回例示した『タコピーの原罪』は、両者を意図的に分けて話が進行する点においてこの作品の完成度の高さが伺える。ただし、2000年代以降の鬱漫画作品では、精神的援助に焦点があてられる傾向にあることも、一言付け加えておきたい。
精神的援助の種類
上記の問題に付帯して考えるべきもう一つの点は、「精神的援助」の腑分けである。言い換えるなら、精神的援助を考える際には、精神的援助を求める相手との関係性がキーワードとなる。これは、作品内で登場人物同士が精神的援助が可能な関係にあること、つまり愛着関係の有無や形成、そして関係の破綻がポイントとなると考える。心理学について当方は門外漢であるものの、上記30の事例からいくつかの愛着関係について言及が可能である。まず一つ目が、親子関係である。この典型例としては『血の轍』『ミスミソウ』『愛と呪い』などが挙げられるだろう。二つ目が、恋愛関係/性的関係である。実世界でも鬱漫画世界でも、親子関係が満たされないことが恋愛/性的関係にスライドすることはよく知られているし、正面切って恋愛/性愛関係の破綻が描かれる場合も多い。この関係性における援助の不足が描かれる作品としては、例えば『愛と呪い』『先生の白い嘘』『ぼくらのへんたい』などが挙げられるだろう。特に援助交際などの形で現れる傾向にある。三つ目が、友情・同朋関係である。これは、特に学校や学園を舞台とした作品の中で扱われることが多い。この友情関係の欠落の表出がいじめであることは、想像に難くないからである。代表例を挙げるならば、『ブラッドハーレーの馬車』『ライチ☆光クラブ』『愛と呪い』などがその例として挙げうるだろう。余談だが、当方の調べでは、『愛と呪い』は鬱漫画ランキングにおいて常に上位(5位以内)にあげられる傾向にあるが、これはすべての愛着関係が崩壊している様が描かれていることにもよるのではないだろうか。
加えて、一応物理的援助の不足がよく描かれている作品も念のため挙げておきたい。『四丁目の夕日』『ブラッドハーレーの馬車』『ちいさいひと 青葉児童相談所物語』などの作品はそれに当てはまるのではないだろうか。
また、もう一点付け加えておきたいのは、上記三つ以外の関係も当然存在しうる。例えば、『チェンソーマン』の第一部のマキマとデンジの関係は、親子にも恋人にも微妙に当てはまりつつ、決してどちらとも言い切れない関係であるし、『鬱ごはん』などは人間的な愛着関係を放棄した上で、あえて飯との「愛着関係のなさ」に焦点が当てられている。
最後に、三つ目のswchを考察するための主要テーマとして、物語内における援助が、垂直関係的に与えられるか、水平関係的に与えらえるかも重要な要素である。こちらは先に垂直関係的あり方を「デウスエクスマキナ」型、垂直関係的あり方を「援助者」型と定義した上で、以下の各項目で説明を加える。
「デウス・エクス・マキナ」型の援助
演劇を論ずる際、特に古典ギリシャ悲劇において、「デウス・エクス・マキナ」という概念を用いた分析がなされることがある。デウス・エクス・マキナとは、より簡易的に言うならば「神の救いの手(「機械仕掛けの神」とも)」であり、wikipediaによると以下のような意味である。
これを鬱漫画の文脈に置き換えて考察するならすなわち、ある種上から与えられる形での救い(=垂直関係における援助)である。何度も事例として出して恐縮だが、『タコピーの原罪』におけるタコピーは、このデウスエクスマキナ型の物理的援助を行おうとして何度も失敗するわけである。『ライチ☆光クラブ』も、一見人間関係の在り方は水平的(学友同士)ではあるが、「救い」としての少女が登場したことで、一気に光クラブのメンバーの関係が悪化していく。その他、『ぼくたちがやりました』『外れたみんなの頭のネジ』にも一部そういった要素が見られるし、世界的重大な事項に強制的にからめとられるという意味では『最終兵器彼女』なども一部関連していると言えるだろう。また、上記の事例には登場しないもののわかりやすい別の事例として『ファイアパンチ』(藤本タツキ、2016、少年ジャンプ+)も好例として挙げられる。(さらなる余談だが、ギリシャ悲劇は非常に鬱展開の作品が多いため、鬱漫画好きかつ読書好きの方は、ぜひちらっとでも目を通してみてほしい。ちなみにオジサンはギリシャ悲劇が大好きである。)
「援助者」型の援助
また、「援助者」という概念からも分析することができる。援助者という言葉自体は様々な領域で使用されるが、ここでは医療や介護・福祉などの観点における、クライエント(サービスの受け手)を援助する人を指す。例を挙げる方が早いが、例えばソーシャルワーカー、ケースワーカー、介護者、ボランティアなどが援助者に当たるわけである。厳密にはここに家族間援助の場合も援助者として加えられるのだが、ここで重要なのは、支援する者-される者というある種二項対立的な関係のあり方が前提とされている点と、もう一点はこの援助者の関係が水平的関係にある点にある。水平的関係とはつまり、神が手を下したがごとく一つの行動や行為によって援助がもたらされるのではなく(「デウス・エクス・マキナ」型の援助)、水平的人間関係によるひたすらに複雑な関係性の絡まり合いを描く形を指す。つまり、何か一つ援助を行っても、積み重ねれば有効ではあるものの、その効果範囲は極めて限定的で、場合によっては簡単に否定されうる。なお余談だが、今回わざわざテーマとなるキーワードを「助けてくれる存在」という長ったらしい言い回しを採用したのは、もちろん助けとなる存在が人以外であることに加えて、この「援助者」の概念との混乱を避けるためである。
さて、援助者の概念を鬱漫画に転用するためには、ここにさらにもう一点付け加える必要がある。それは、公的な援助であるか、私的な援助であるかという分類である。公的とは文字通り、作品内にいて国家や地域・政府・市役所などの公的組織、あるいは特定の会社や外的組織もここに含めてよいと思うが、こういった領域からの援助である。事例で述べるなら、『ちいさいひと 青葉児童相談所物語』や『「子供を殺してください」という親たち』などがこれに当てはまるだろう。一方で、私的援助とはつまり、家族内援助や個人間における援助である。テーマとしては、家庭内介護やヤングケアラーから親友が相談に乗るといった状況まで幅広い範囲を指す。しかし、一般的に多くの鬱漫画の場合、こういった状況は外部の目にさらされないが故に鬱展開をもたらす場合が多い。例としては『少年のアビス』『愛と呪い』『血の轍』『ハッピーシュガーライフ』などがこれに当たるだろうか。また、特に近年増加しているのは、ヤングケアラーの問題である。ルポマンガも2010年代半ば以降増加傾向にあるが(代表的な例:『わたしだけ年を取っているみたいだ。』(水谷緑、2022、文藝春秋)など)、鬱漫画として分類されるものの中で多いのは、圧倒的に親の心のケア要員としてふるまうことを強制される年少~青年期の子供の話が多い。
「助ける」という行為がもたらす鬱漫画への効果
そもそも人(ここではメインキャラクターを指すが、ここが動物や擬人化的動物である場合も含むこととする)を「助ける」という行為はどのような心理的効果を及ぼすのだろうか。
まず単純かつ最も大きな効果は「上げて落とす」、つまりゲイン・ロス効果である。心理学的に言うならば、一定の評価を与えるよりも、途中に評価を逆転させることでその逆転させた評価がより大きく感じられるという概念である。ただし、鬱漫画においてはあからさまな「上げて落とす」行為はあまり好まれず(場合によっては作品の未熟さとして読者に評される)、気が付いたら上げて落とされていた…というのがベストであろう。この最も典型的な例としては『ミスミソウ』である。ちなみにこの反対に、当初に一定程度主人公につらい・きつい体験をさせておいて、後に物語をひっくり返すことで読者を爽快にさせるのはヒーロー譚(英雄譚)の物語の定石である。(ただし近年は、最初の苦痛・低調な展開を耐えることに価値を見出さない、いわゆる「俺つえー」系の物語がライトノベルを中心に増加している点についても、いつか分析を試みてみたいものである。)
次いで効果として考えられるのは、上げて落とすのではなく、swchが登場することによって、それは確かに援助であるはずであるのに問題の核から外れているが故/あるいは援助の手がほとんど差し伸べられることなく、坂を転がるように状況が悪くなっている場合がある。これは多くの場合が「デウス・エクス・マキナ」型をとるため、必然的にかなり先までプロットを練る必要があり、あまり鬱漫画市場の中でも多くはない。この典型例として見事であるのは、『四丁目の夕日』であろう。幸せな家族が、特に誰が悪いわけではないのに日に日にすべての状況が悪くなっていく様は、鬱漫画好きの間で定評を得ている。援助という観点で言うなら、特に主人公の彼女的存在(恭子)や金持ちの親友(立花)が冒頭では主人公に幸福感をもたらす存在であったにも関わらず、後にごく自然に鬱的アクセントとして効いていく点も評価が高い。また、『闇金ウシジマくん』のように、「金を貸す」という行為そのものを見れば短期的には救いだが、そのことが後ほど当事者を苦しめるという一見援助のように見えて実は援助ではない形態もこれに当てはまる。なお、闇金やマルチ、カルト宗教、ホスト・ホステス世界を題材として描く際にこの効果はよく用いられる。
これらのことを踏まえて、「助けてくれる存在」というのは鬱漫画の物語展開上、存在するとその鬱展開の深度をより急速に深めてくれる。その一方で、今回実際に例を挙げて分析を試みた結果、上位30件のうち2/3以上(22件)にはswchの存在が認められたが、それ以外(8件)ではswchの存在が認められなかった。当初はすべてにswch的存在があるものと個人的に予測を立てていたために、これはかなり意外な発見であった。さらなる鬱漫画を成立させる確たる要素の分析が求められる。
以上、それ以外にも考察すべき点はあるかもしれないが、ひとまず思いつくままに指摘した。鬱漫画スキーの同朋諸氏の素敵な鬱漫画ライフに多少なりとも寄与できることを願う。