【18日目】ゆたぼんへの検討違いな批判の虚しさ ─レールの上を歩いてきた僕と、地図なき道を行くゆたぼん君─
ー執筆者 國井ー
序文
「人生は冒険だ」
ディズニー・シーに行ったとき、シンドバッドがこんな一節を歌に乗せていた。地図もお金もないけれど、小さな船に乗り込んで、7つの海を渡る冒険に繰り出す。単純な感性を持つ僕は、そんな英雄譚に目を輝かせてコースターに乗るのだ。
「人生は冒険や」
これが関西弁になった途端、違う響きが生まれるのはなぜだろう。学校に通わない少年革命家、ゆたぼん君が言っていた。彼もまた、地図にない人生を歩む1人だ。だけど、本音を言えば、生意気な子供が偉そうに説教を垂れる動画は、気分がいいものじゃない。さらに彼は、卒業証書も破いてしまったらしい。そんなパフォーマンスを見てると嫌気がさして、ついつい「学校に行け」とか「社会はそんなに甘くはない」という言葉を口にしたくなるのだ。
「模範生徒」の僕と、ゆたぼん君
学校に行く必要があるのか。改めてこの問いに立ち返ると、学校抜きでは語れない自分の人生が浮かび上がってきた。振り返れば僕は、20年以上の人生を「模範生徒」として生きてきた。事実、学内の模範生徒として学校長に推薦され、教育委員会から卒業時に表彰まで受けた。そして今年、名門国立大学で4年目を迎えた。世間の敷いたレールの上を、一歩も違うことなく、むしろ上出来なまでに、着実に歩んできた。
であるから、学校を否定し、生徒を「ロボット」と罵るゆたぼんの切り口は、僕の人生の否定までをその射程に入れている。さて、模範生徒たる僕は「学校に行く必要性」という問題に対してどれほどの回答を用意できるだろうか。
僕の学園生活
僕は学校に通うのが好きな子供だった。さらに言えば、休日よりも平日の方が好きだったほどだ。よい仲間、指導者と出会い、のびのびと過ごした。そんな僕でも、当たり前のように、クラスが窮屈に感じたり、人間関係の問題が生じたりしたこともあった。学校に関しては特に、多感な思春期を過ごす若者が一か所に集まることで、いじめなどの社会問題の温床となってきた側面がある。
高校の卒業式、クラス中が卒業アルバムに寄せ書きをして盛り上がる中で、白紙のまま、人知れずこっそり帰ったやつを僕は知っている。僕とあいつの3年間は、もしかしたら、まったく別の景色だったのかもしれない。そんな彼の目に「学校にいかんでええ!」と語る小学生の姿は、どのように映っているのだろう。模範生徒たる僕は、そんなことを知る由もないし、知ったつもりをする気もない。
学校にいかない子供たちへの批判と、その批判
よく、学校に行かなくてはいけない理由を「社会生活のいろはが身につく」「教員免許を持たない人間によるホームスクーリングでは知識が身につかない」「行かないと将来、仕事に困る」「大切な人間関係を構築できる」「虚数を学べない」「IQがあがる」という視点から説明される。これらはあまりに検討外れな指摘に聞こえる。
そもそも学校に行かない子どもたちは、学校を通じて身に着ける「社会」や、そこで生産される再帰的な「知識」、それによって作られる「システム」から弾かれて誕生してしまったのだ。にも関わらず、能天気な批判者たちは、現代社会を当然の前提として学校の必要性を説明する。思い出してほしいのは、学校に行かない彼らの存在は、学校を通じて形成される現代社会それ自体に疑問を投げかけているということだ。
学校に行ったにも関わらず、こんな初歩的な必要/十分の論理関係を履き違えた「IQの低い」話に終始しているのを、皮肉以外になんと形容できるのか、僕は知らない。これにゆたぼん君のパーソナリティという着火剤が投げ込まれれば、話はいよいよあらぬ方向に漂流してしまう。
これまで展開されてきた議論の虚しさの骨格が見えたのは僕だけだろうか。
「模範」
学校が必要か、そうでないかという議論は、もうよした方がいいだろう。僕は模範生徒として学校に受容された一方で、そうではない子供たちがいる。なぜ学校は、ゆたぼん君を生み出してしまったのか。既存の学校が受け止めきれなかった子供たちがいることを、現代社会のテーマに続く問題として捉え、僕たちは真摯に向き合わなくてはいけない。
にも関わらず「学校に行くべきか、それとも行かなくていいのか」という意味のない対立軸を主題にして、どちらか一方を「論破」するなど面白半分に囃し立てる風潮は薄ら寒ささえ感じてこないだろうか。
ゆたぼん君への批判
学校に行くことで、定められた「模範」へ向かわせようとする意識が自然と身についてしまうという洞察は、偉い哲学者も同じことを指摘している。小学生の段階でこのことを意識できる感性は、素晴らしいものがあるのだろう。そして地図のない人生を歩む君は、社会に大きなテーマを提起している。国内の同年代でそれほどまで影響力をもつ子は、片手で数えるほどだろう。
ただ、君が学校に通わないことと、学校が必要でないという話は、必ずしもイコールではない。学校にいく子供たちを「ロボット」と一蹴すれば、先程述べたような「学校が必要だ」と話す能天気な批判者たちの論理を、そのままひっくり返しただけになってしまう。仮に「革命」のゴールがそこにあるならば、やはり僕は君の話にも賛同しかねる。
最後に
今回のテーマについて、学校に行く人間、不登校の人間という安直な分類はなんの意味も持たないと話してきた。現代社会にふるいにかけられた子どもたちの声を、上から目線で潰すような真似はしないであげてほしい。そもそも僕達だって、ふるいの中に残っているかどうかはわからないのだ。
事実僕は、模範生徒でありながら、いい歳して深夜にカブトムシ取りに出かけ、学校に通報されるようなクソガキであった。たまたま、くだらなさを戒めながら愛してくれた教師と、仲間に恵まれたにすぎない。或いは環境が違えば「キモい奴」として、虐められていたかもしれない。
学校に通うひともいれば、通わない人もいるのが社会だ。「模範生徒」の僕の口から、「模範」の意味を相対化することで、使い古された「多様性」という言葉の真の意味をもう一度考え直してみることにつながれば幸いだ。