細野晴臣『トロピカル・ダンディー』を聴いて
細野晴臣の音楽について語ること、それは野暮ではないかと私には思えてしまう。彼の音楽を聴いて得ることのできる、えも言われぬ幸福感、それは言語化するために掬い上げようとすると、手の隙間からサラサラと零れ落ちてしまう、真に音楽でしかないものである。だから、「細野晴臣を何か聞いてみたいのだけれど…」という人がいたら、私は何ら言葉を用いずに、「まあどれからでも聴いて間違いないから、まず聴こうか」とスピーカーの電源を点けることになると思う。
それでも、ここで音楽のことを語ると決めた以上、私にとって私の心を捉えて離さない細野晴臣の音楽を取り上げることは避けがたいのである。
………と、まあなんというかみっともないごたくをたくさん並べてしまったが、聴いて、読んでくれたら嬉しい。
1.「やすらぎ」と「くつろぎ」
細野晴臣の音楽は、「やすらぎ」と「くつろぎ」で出来ている、と思っている。少なくとも今の私にとって、細野の音楽の中に、例えば大滝詠一のような懐かしさに胸が張り裂けそうになる感じとか、坂本龍一のような一音たりとも動かしてはならない堅牢で厳しい感じを見出だすことは、難しい。たとえその種の音楽を聴き取ったように思えても、すぐにまた「くつろぎ」と「やすらぎ」が私を包み込んでいく…
ここまで来て次のような反論が私の耳に入ってくる。「いやいや、あなたがいう『やすらぎ』と『くつろぎ』、それはどちらも似たようなものじゃないの?」
うーむ、確かに… 確かにそんな気もする。
いやしかし、例えばYMOの『SOLID STATE SURVIVOR』の中の「ABSOLUTE EGO DANCE」には、踊り出したくなるような楽しさがあり、頭を空っぽにして聴くことができるような「くつろぎ」はあるが、一日の終わりにこれを聴きながら湯船に浸かるとどんな疲れも吹っ飛ぶといったような「やすらぎ」はあまり無い。
反対に、『MERCURIC DANCE』の中の「FOSSIL OF FLAME~FIFTY BELL-TREES」には、再生後直ちに私たちを癒しの世界に送り出し、世界中の誰もを眠りへと誘うような「やすらぎ」はあるが、ドライブの最中カーステレオで流したときに思わずハンドルを握る手が動いてしまうような「くつろぎ」は見出だせない。
こういう具合で、私の感じた「やすらぎ」と「くつろぎ」を整理していくと、要するに細野晴臣の音楽で私が感じる「やすらぎ」は、和音や音色などの、それ自体で完結している「素材」に、一方で「くつろぎ」は、メロディーやリズムといった、時間の経過によって初めて知覚することのできる「動き」に由来するということがわかってきた。ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の「プレリュード」で説明し直すとしたら、冒頭のF-C-G-B-D-Gと素敵に響く和音が「やすらぎ」であって、そのあと高いところから水が流れ下っていくように紡ぎだされる旋律が「くつろぎ」ということになる。
細野晴臣の音楽の「素材」――私はあまりコードを感じる能力が無いしほとんど音色の話になるが――それはアコースティックでもデジタルであっても(勿論、私の大好きな細野晴臣の「声」であっても)、決して拒絶反応を起こさず、初めて出会ったときでも、まるで昔から私の身体の一部であったかのように、すぅーっと沁み込んでくる。
そして、「動き」についても、人間の生理に絶対に背かない、自然で居心地の良いリズムとメロディーに溢れている。(それは、テクノ期のアルバム『PHILHARMONY』の中の「Sports Men」が、後に『FLYING SAUCER 1947』において何の違和感もなくカントリー・バンドのスタイルでカバーされたことによって、端的に示されている。)
このように、「素材」と「動き」に対して、決して人間の身体の生理に無理をさせない細野の音楽が、「やすらぎ」と「くつろぎ」としか名状できないような、素晴らしい音楽的快感を私たちにもたらすのである。
そして、この『トロピカル・ダンディー』は、1stアルバムの『HOSONO HOUSE』で既に充分なほど示された彼の音楽の方向性を、新たな方法論で追求した、非常に豊かで瑞々しい、それでいて普遍的な優しさが横溢しているアルバムなのである。
2.『トロピカル・ダンディー』はポップスのアルバムか?
——チャタヌガ・チュー・チュー
ここでやっと、収録曲を見てみることにしよう。
さて、私が考えるこのアルバムの大きな特徴は、スロー・テンポの曲が半分以上を占めていることである。「何を当たり前のことを…」と思ったとしたら、私は恥ずかしい限りで穴があったら入りたいところだが、それでも、最初にこのアルバムを丸々聴いたとき、ド頭に流れるの「チャタヌガ・チュー・チュー」、シングル・カットされた「北京ダック」、そしてひっくり返した一曲目の「漂流記」の、軽やかで着飾るところのない細野の歌声のイメージが頭に残り、他の曲、特にB面最後のインスト二曲などにあまり意識が向かなかったということはないだろうか。(アナログ盤を想定して書いてみたが、私がストリーミングで初めて通して聴いたときもそのような聴感を得た)
確かに「北京ダック」と「漂流記」は、はっぴいえんど時代及び『HOSONO HOUSE』における方向性を継承しつつ、そこにエキゾチックな意匠を凝らした傑作であり、間違いなく細野晴臣の最高の「くつろぎ」の一角を成している。はっぴいえんどを入口に細野晴臣を聴くようになった人にとって、この二曲が強く印象づけられるのは(昔も今も)当然のことであると思う。(「チャタヌガ・チュー・チュー」も、はっぴいえんどにおいて追求された「洋楽のメロディーを日本語の歌詞で歌う」というコンセプトを受け継いでいると考えることができる。しかしそんな堅苦しい意味付けをするよりも、細野晴臣一流の「くつろぎ」が、このアルバムを聴く人へ「肩ひじ張らずに聴いてくださいね」というご挨拶となって表れている、と考えた方が自然だ。後年まで続く、洋楽カバーアーティストとしての細野の面目躍如たるトラックだ。)
——北京ダック
そして、このA面最後の「北京ダック」と、B面最初の「漂流記」、この二曲が、私が思うにこのアルバムで、最もソリッドな箇所である。先述したように、軽快なリズムに加わる適度なエキゾティシズム。例えばティン・パン・アレーの『キャラメル・ママ』の中に加えられても、何の違和感もないポップ・チューンである。一貫したリズムがあり、短い前奏があり、サビがあり、二番があり、3分前後で終わる…
さて、では仮にこの二曲を『トロピカル・ダンディー』から外してみたらどうなるだろうか?「チャタヌガ・チュー・チュー」で軽快に始まった音楽会は、「ハリケーン・ドロシー」で早くもゆったりとした雰囲気になり、「絹街道」で少しポップ寄りになるものの、「熱帯夜」でさらにまどろみ、あとは「ハニー・ムーン」「三時の子守唄」インスト二曲と、ひたすら穏やかに、平和に、凪の海の永遠に広がる水平線を眺めるように、「漂流記 (Instruments)」における楽器と波の音に収斂していく… このように、「北京ダック」と「漂流記」を除いた『トロピカル・ダンディー』は、ほとんどイージー・リスニングに近い音楽になる。
——ハニー・ムーン
では細野は、イージー・リスニングのアルバム――まさしくマーチン・デニーのような――を目指していたが、セールスかなにかの理由で妥協して、二曲のポップ・チューンを間に入れてポップスのアルバムとしての体裁を整えたということなのだろうか。いや、恐らくそうではあるまい。細野自身がこの時を振り返って「誰も聞いてないと思ってた」みたいなことをよく言っている。すなわち当時の細野にとってこのアルバムは、妥協などではなく、前作で方向づけた彼の音楽性、つまり「やすらぎ」と「くつろぎ」を真剣に追求した結果なのだと思う。(それに、本当のイージー・リスニングとしての仕事はYMO解散後のアンビエント期の彼がちゃんとしている。)
そしてそのことは、アルバムの最後に突如現れる波の音と鳥たちの鳴き声まで辿り着くことで、よりハッキリする。
3. 波の音
——熱帯夜
このアルバムで、浜辺に打ち寄せる波の音が登場するのは二曲ある。四曲目の「熱帯夜」と、先ほどから何度も言及している、一番最後の「漂流記 (Instruments)」である。
「熱帯夜」については、細野の言う「エクゾ」の音楽というより、私にはハワイアン・ミュージックに聴こえる。(もちろん曲単体で聴いたときのハナシだけど。)だから、ここの波の音は、例えばクリスマス・ソングに鈴の音が入っているのと同じ意味での「お約束」のようなもので、曲のムードを高めるSE的に機能しているように感じる。(しかし、後述するようなこのアルバムにおける波の音の重要性を考えると、一種の「伏線」にも思われる。)
一方で、アルバムを聴き通したときの、ついに細野の歌声も聴こえなくなる「三時の子守歌 (Instruments)」と「漂流記 (Instruments)」が、アルバム全体の余韻のように優しく響き、「ああ、もうこの穏やかで幸福な時間は終わるんだな」と名残惜しさを覚えたところに、不意に現れる波の音(ラスト・トラックの1分24秒頃)は、「熱帯夜」のそれとは全く異なった印象を受ける。
楽しいバンドの音楽が中断され、突如広がる南の島の海岸の光景、夕暮れ、鳥がたくさん飛び交う、電話越しの女性の声、遠くの船の汽笛…
これまで流れてくる音楽に身を任せていた私たちは、アルバムのジャケットのような景色が広がる空間へ、急に放り出され、呆然とする。しかし、そこでもまた、これまでの音楽から受け取っていた心もちは、少しも変わらない。まるで、細野晴臣の音楽がずーっと続いていくように、波の音を、いつまでもいつまでも聴いてしまう自分がいる。
——漂流記 (Instruments)
同じはっぴいえんどのメンバーであった大滝詠一も『NIAGARA MOON』の中で、波の音ではないが、それに近い滝の音を効果的に使っている。このアルバムでは、一曲目のタイトル・トラック「ナイアガラ・ムーン」で、滝の音の中からストリングスの豊かな音色が立ち現われ、インスト曲として演奏が終ったのちに、大滝のソロ曲が「三文ソング」を筆頭に続く。そして最後の「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」で一曲目のメロディーが歌詞付きで歌われたあと、長い後奏が続きながら、徐々に滝の音がフェード・インしていき、最終的に滝の音だけで静かにアルバムを閉じる。ここで滝の音は、前奏と後奏の役割を与えられ、アルバムという一つの完結した世界を包み込む存在となっている。
しかし、『NIAGARA MOON』にとって滝の音は、あくまで前奏と後奏であり、「三文ソング」以降の大滝が自身のイディオムを使ったキラー・チューンたちに、滝の音のような穏やかさは見受けられない。大滝は、多様なスタイルから成っている曲をひとつのアルバムにまとめあげるために、ここでは滝の音を単純に利用しているということであろう。
それに対して、『トロピカル・ダンディー』の終わりに波の音が耳にやってきたとき、私は——本当に一瞬だけ——「これも細野晴臣の作曲かしら?」と疑ってしまう。(これは誇張ではない。)そして、それまでのアルバムにおける音楽の世界観と、波の音、及び立ち現れてくる情景の心地よさ、「やすらぎ」が、同じ水源から流れ出たものであることに気づく。平穏で豊かな、安心立命できる音楽… 初めて聴いても、まるで自分のルーツがそこにあるかの如く、懐かしく癒される音楽… そう、『トロピカル・ダンディー』は、波の音から生まれた音楽なのだ。種明かしは一番最後に行なわれ、そして波の音にまた還っていく。このアルバムにおける細野晴臣は、「やすらぎ」の究極を、波の音、つまり海の音に見出したのである。そこには海が生命の源であることや、羊水の中で心臓の鼓動を聴くのが人間の最初の感覚であるといったような、人間の水に対する根源的なイメージも関わっているだろう。そしてこの感覚、すなわち乱暴に言えば「自然に還れ」という感覚は、後年まで彼を貫いていくことになるだろう。
4. まとめ
『トロピカル・ダンディー』の発想の源が波の音である、このことを念頭に入れておけば、アルバムの曲のほとんどがスロー・テンポで、フェード・アウトで終わり、一曲の中で変化がない、ということも納得がいくだろう。静かに砂浜に打ち寄せる波が、複雑で激しいリズムであってはならず、またそれはアルカイックで永遠に続いていくような音楽でなければならない。
しかし、そればかりでは「くつろぎ」が失われる。確かに波の音は万人を包み込むような究極の「やすらぎ」を持つが、「くつろぎ」に必要な「動き」が無さすぎる。「やすらぎ」だけでは聴いている人間は静止してしまう。
そこで、細野はアルバムの一番初めに「チャタヌガ・チュー・チュー」、そして中心に「北京ダック」と「漂流記」という、楽しいリズムと親しみやすいメロディーという「くつろぎ」に満ちたポップ・チューンを配置した。
それぞれアルバムの重要な位置に置かれたこの三曲は、『トロピカル・ダンディー』に流れる時間を適度に動かし、「やすらぎ」と「くつろぎ」の最も心地よいバランスを作り上げる。
聴き手に充分「くつろぎ」を感じさせたところで、「ハニー・ムーン」「三時の子守歌」と徐々にテンポを落とすことで、流れる時間を緩めていき、さらに「三時の子守歌 (Instruments)」で歌も退場させることによって、聴き手にアルバムの終了を予告する。
そうしてついに、「漂流記 (Instruments)」の途中で、不意に波の音だけが残る。このアルバムの音楽が、裸のすがたで現れ、静かな笑みを浮かべながら、波間に消えて行ってしまう——細野晴臣がくれた「やすらぎ」と「くつろぎ」は、音楽が終っても、ずっと私たちの心の中に残っている。
果してこのように考え抜かれていながら、それを聴き手に悟らせないようなアルバムが、他にどれくらいあるだろう?そして、音楽家が思い描いた二つの異なる方向性が、上手い具合に調合されたアルバムが…
5. 余談 ~最近における「歌モノ」の細野晴臣
ちなみに、『トロピカル・ダンディー』の聴感と、近年の彼のアルバム、すなわち『FLYING SAUCER 1947』以降の、いわゆる「歌モノ」アルバムの聴感は、私にとって非常に近い。『Heavenly Music』然り、そして私にとって至高のアルバム『daisy holiday presented by haruomi hosono』然り… それというのも、近年の細野もまた「やすらぎ」と「くつろぎ」が絶妙に混ざり合った音楽を志向しているからであろう。
しかし、その混ざり方は『トロピカル・ダンディー』よりも、繊細で緻密であるように思う。録音機材やバンドメンバーに負うところはもちろん大であるが、細野晴臣の「声」が、それこそ二つを結び付けるのに非常に大きな役割を果たしているように思える…。が、それこそ言葉で説明するのはとても難しいことに思える(いまの私には到底できない)し、またそんなことをするのは野暮の極みのように思えるから、目下私はそれを心地よく楽しく聴くに留めておくことにしている。
そういえば、『FLYING SAUCER 1947』の時期にこんなことを言っているなあ。
人間がやって来て、帰って行く場所としての「海」――そんな海に、音楽をもって浸ってみたい方々、細野晴臣の音楽は本当にオススメですよ!