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#私の学び直し

わたしは40代半ばでである大学の通信課程に学士入学し、4年かかって卒業した。
新聞で行動経済学の記事を読んだとき、経済活動にも人間の心理が影響するのかーと思い、それなら心理学を学べばいろいろなことがわかるのではと考えその手の本を何冊か読んでみたら、心理学のその先(元?)には哲学という学問があるということを知り、あらゆるものごとの大元になっている学問を学びたくなった、というのが入学へのきっかけだ。

最初に断っておくと、通信課程では一般教養的にならざるを得ず、哲学を専門的に深く学んだとまでは言えない。だけど、下地さえなかったわたしには文字どおりとても勉強になった。その先の深堀りは今後また考えたい。

お恥ずかしながら現役のときにはろくに勉強しなかったので、レポートや論文の書き方すら知らなかったので、通信課程ではそこから学ぶことになる。
大学で普通に勉強したひとなら当たり前のことをわたしはぜんぜんわかっていなかったので、この通信課程を終えてようやく大学をちゃんと卒業したという気持ちになった。現役の時の大学はただ行っただけで、授業で教えられたことも何一つ覚えていないし、よく留年もせず卒業できたなと思う。

で、おとなになってから哲学系のことを学んだことが、意外にも仕事に役に立った。
無知の無謀で入学して初めてのスクーリング授業で言語哲学をとってしまったのだが(ほんとうはもう少し勉強してからのほうがより理解が早かったんだろうけど)、難しいなりにもこれが非常に面白かった。
授業の内容についてここでは詳しく述べないけれど、この学びによってことばの使い方に良くも悪くも慎重になった。
同じ単語でも、自分が言っているのとだれかが言っているのとでは指しているものが違うのかもしれない。だから、会議なんかで微妙に齟齬が生じていると感じたときは、どういう意味でその言葉を使っているのかをもう一度確認するようになった。要するに見てるものはあなたとわたしで一緒ですか? ということをはっきりさせる。
ただ、プライベートでそれをやるとただの理屈っぽいひとになって嫌われるので、大勢に影響のないことはぼやっとさせておくことも多いけど。

もう一つ影響の大きかったことは、なにが正しいかを簡単には決めつけなくなったことだ。
大学の先生がなにかを説明するときにほぼ必ず、これは一つの考え方であるというようなことを言っていたし、自分がレポートや論文を書くときも主張を裏付ける根拠を徹底的に調べないといけなかったからだ。
1=1のようなあらかじめ正しさが決められていることでない限りは、容易に正しいと決めつけることはできなくなったし、ひとの決めた正しさに金魚のふんのように着いてもいかなくなった。
目途をつけたある方向性への仮説を立てて進んでいくと、その過程で当初考えていた結論とは違う結論が出てくることもある。それを経て、納得できる客観的根拠を採用した上で判断しなければならない。それをやってるから、わたしは筆が遅く、何度も何度も課題を書き直したりもした。
でもおかげで、日常的にも情報に飛びつかず、自分なりに調べて考えて判断するようになるし、ひとの主観的な主張(たとえば愚痴や悪口)も鵜呑みにしなくなったけど、これは悪く言えば疑り深いとも言えるかも。
とは言え、まだまだ頭がへなちょこなわたしは、ひとの決めた正しさに考えなしに従うのは嫌なくせに、どっちが/なにが正しいのかがいつも揺れてしまう。

以上のことは大学を出ていれば当たり前のことで自分の恥をさらすようだけど、わたしにとっては目から鱗が落ちるような体験だったので記録しておく次第。

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