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十数年前、韓国語研究者がスコットランドでポスドクをした:海外学振の経験


はじめに

最近,ある人がXで「海外学振ってどうなんだろう」みたいなことを投稿していて,それに答えるかたちで私も投稿をした。ちょうどいま,海外学振の募集がまた始まったところでもあるので,Xの投稿を拡張するかたちで,海外学振の経験をまとめてみることにする。

ちなみに「海外学振」というのは正式には,「日本学術振興会海外特別研究員」のこと。大学院博士課程を修了した人に対して,2年間フェローシップ(生活費と多少の研究費を合わせたぐらいの額)を支援してくれるというもの。

なぜ海外学振?なぜ英語圏?

もともと英語圏に留学したいと思っていた。ただ,いろいろな事情があって,日本の大学で博士課程を修了した。でもチャンスがあれば,別のかたちで英語圏に行きたいと思っていた。

でもなぜ英語圏なのか。私の研究対象は韓国語だ。韓国語を研究対象としていて英語圏で学んだりポスドクをしたりするケースなんて,あまり聞いたことがない。

広く言語系の学問分野(言語学のほかに英語学,英語教育,日本語学,韓国語学,etc.)において,英語圏に行くのは英語にかかわる分野(英語学・英語教育)出身の人が多いと思う(そして英語学出身の人は,英語圏の大学院で母語である日本語の研究を始めたりする)。韓国語研究者は普通,韓国に行くものだ(実際私も,大学院時代に韓国に留学した)。そして,大学院修了後は日本の大学の韓国語教員公募に応募し,採用されなければ非常勤講師を続けながら公募戦線に挑み続けるというのが,一般的な進路だ。

ただ,純粋に学問的なことを考えたとき,私にとって英語圏は魅力的だった。私は言語学コース出身で,研究対象として韓国語を選び,イントネーション音韻論(Intonational Phonology)の観点から研究していた。それで、(対象言語を問わず)イントネーション音韻論の盛んなところに行ってみたかったのだ。言語学の理論的な研究は英語圏が進んでいる。それは音声学・音韻論においても例外ではない。

ちなみに英語は別に得意なわけではなかった。高校の頃は,英語がいちばんの苦手科目だった。

韓国語研究者が英語圏に行く・・・という一般的でないルートにはリスクがあったかもしれない。ただ,当時はそんなことは考えなかった。将来の就職については,根拠のない妙な自信があった。

海外学振に採用されるまで

博士課程の最後の年に,海外学振に応募した。普通の学振PDにも応募した。

海外学振については,応募の段階で受け入れ先の先生に許諾を得なければならない。自分の中では行きたいところは決まっていた。イントネーション音韻論の大家で,まさにIntonational Phonologyという本を書いたL先生のところに行きたいと思っていた。大学院生の頃,この本を読んでとても影響を受けたのだ。ただ,このL先生と面識は全くなかった。

面識は全くなかったけれど,L先生にとりあえずメールを送ることにした。まず,L先生のメールアドレスを調べるために,L先生の教え子で日本の大学で教鞭をとっている(そして我々の分野ではとても有名な)K先生に,L先生のメールアドレスを教えてもらうことにした。K先生にメールを送り(といっても,当時私とK先生の接点も,学会誌投稿の際にK先生が編集委員長だったために連絡をしたことがあったぐらいだったのだけど),L先生のメールアドレスを無事に聞き出すことができた。実は,こんなプロセスをわざわざふまなくても,L先生のメールアドレスはインターネット上に公開されていたのだけど,L先生にメールを送る際に,「K先生からアドレスを教えてもらいました」と言えたほうが良いような気がしたのだ。

まずしっかりとした研究計画書を英語で書き,それを添付してL先生にメールを送った。ダメもとだったので,返事が来たときはびっくりした。メールを開くのに緊張した。開いてみると,フェローシップに採択された場合に受け入れるのは大丈夫だと書いてあった。

海外学振の審査結果は,博士論文口述試験の日に届いた。口述試験が無事に終わり,ほっと一息という感じで家に帰ったら,日本学術振興会から厚みのある封筒が届いていた。採択だった。

ちなみに同時に出した国内の学振PDは不採択だった。両方採択されたら悩んでいたと思うが,幸い悩むようなことにはならなかった。

海外学振の最初の頃

そんなわけで,2007年1月,L先生にいるエディンバラに渡った。英語圏に行くのはそのときが2度目であり,住むのは初めてだった。

エディンバラはイギリス北部にあり,スコットランドの首都だ。「北のアテネ」とも言われるらしい。

成田からルフトハンザ航空でフランクフルト空港に行くまでは,飛行機に日本人がたくさん乗っていた。でも,フランクフルト空港でエディンバラ行きの飛行機に乗り換えると,この飛行機に乗っている日本人は自分だけのような気がして,とても心細くなったのを覚えている。

エディンバラでは,研究室も割り当てられ,L先生とも会い,無事にスタートをきることができた。ただ,最初の頃は,文系海外ポスドクってなんて孤独なんだろうとも思った。留学と違って同じ境遇の仲間がいない。特定のプロジェクトで雇われたわけじゃないし,そもそも個人研究中心の分野なので,チームに属するわけでもなく,多くの時間は個室の研究室で過ごす(そして,これはたまたまだけど,私の研究室はほかの言語学の人たちとは少し離れた場所にあった)。

そして言葉がわからない。エディバラ大学の言語学科には日本人を含め英語ノンネイティブの教員・研究員はたくさんいるけれど,みんな英語がペラペラだ。大学院生の留学生たちも,英語のスコアを提出した上で入学しているわけなので,英語ができる。英語ができないのは自分だけに思えた。

エディンバラに行って少しして,大学付属の語学学校に通うことにした。日本人や韓国人や,その他いろいろな国の人たちがいたが,同じクラスになった人たちは,みな自分と英語のレベルが同じくらいの人たちだった。英語レベルが同じくらいの人たちに囲まれて,ようやく気持ちが楽になった。

1年目後半~2年目前半

現地にもだんだん慣れてきた。英語力は向上している気はしなかったけど,ブロークンでもとにかく話すという度胸はついた。

ドイツで開催された国際会議で発表したのを皮切りに(自分にとって国際会議での発表はこのときが初めてだった),いくつかの国際会議で発表したり,聴衆として参加したりもした。

同い年で当時国語研でポスドクをしていたIさんが訪問してくれたりもした。研究についていろいろ議論したり,将来のことを話したりした。(Iさんは今ではすっかり有名な言語学者になった)。

サバティカルでエディンバラに来ている日本人研究者にも,何人か知り合った。サバティカルで来ている人は,現地で採用されたスタッフではなく学生でもないという点で,自分と境遇が似たところがあった。そういう人たちと早い段階で知り合えていたら,初期の段階でもっと心強かったかもしれないと思った。

韓国人のポスドクの人と知り合ったことがきっかけで,韓国人たちがやっている勉強会にも参加した。留学生もいれば,現地採用のポスドクもいれば,サバティカルなどで来ている人もいた。分野は皆ばらばらだが,毎月誰かが自分の研究について発表して,みなで議論をするという勉強会だ。私も韓国人に交じって,韓国語で発表した。韓国人はこういうネットワークを大切にしていると思う。私が今住んでいる名古屋にも,こういう集まりがあるのを知っている。日本人研究者・留学生が海外で分野横断的にネットワークを作っているという話は,あまり聞いたことがない。

そんなわけで,この時期がいちばん充実していた気がする。

それと同時に,2年目前半には,(主に日本の)大学教員公募への応募を始めた。このころはまだ,なんとかなるだろうと,楽観的な気持ちでいた。

2年目後半

日本の公募に出して面接に呼ばれたら,日本まで面接を受けにいかなければならない。今ならオンライン面接に対応していくれる大学もあるかもしれないが,当時は(Skypeなどのツールがあるにはあったけれど)そんな雰囲気ではなかった。だから,ばらばらの時期に日本の複数の大学から面接に呼ばれたら,エディンバラと日本を行ったり来たりしなければならないのだろうかと,心配をした。(今はどうか知らないが,当時の海外学振は,日本に帰国中は日割りで支給額が減額されることになっていた。)そうなったら,日本で面接を受けたあと,すぐにエディンバラに戻るのではなく韓国に一時的に滞在して様子をみることにしようかと考えたりした。

だが,そんなことは杞憂だった。公募に出していた大学から届く結果の通知は,どれも不採用だった。同時に応募していた学振PDも不採択だった。どこにも採用されず帰国とともに無職になるのではないかと焦った。海外学振が終わりに近づき,研究の成果が思ったほど挙げられなかったことも,焦りに拍車をかけた。

そんな中,2年目の終わりごろにIさんにメールで相談したところから,次のポジション(日本国内のポスドク)の可能性が見えてきた。もっと早く相談していればよかったと思った。

ほぼ同じ時期,応募していた大学のうちの一つから面接に呼ばれた。喜んで日本に飛んだ。

帰国

面接を受けた大学は結局不採用だったが,ポスドクの方が無事に決まった。無職にならずに済んだ。

完全帰国をする前,最後にL先生に挨拶に行ったとき,L先生はIntonational Phonologyの第2版が完成したと話してくれた。私が大学院生時代に一生懸命読んだ本の改訂版だ。出版社から届いたばかりという本を一冊もらい,サインしてもらった。

そして帰国。冒頭の写真は帰国最終日に撮った写真だ。その日は雪がたくさん降っていた。

帰国した直後にこんなブログ記事を書いた。最近思い出して久々に読んだ。 海外の研究レベルはすごいと思ったり,それほどでもないと思ったり。そして,私たち日本の研究者は実は面白い研究をしていて,でもそれを海外で理解してもらうにはどうしたらよいのだろう・・・そんな話だ。今と考えはあまり変わっていない。

その後

海外学振から帰国してから16年が経った。大学院を修了してからだと19年。 当時はそうなるとは想像もしなかったけど,大学院修了してから7年の間,任期付きポジションを渡り歩くことになった。それから今の大学に着任して10年以上が経つ。

やはり海外学振は就職の上でリスクだったのだろうかと思ったりする。大学教員公募というのはマッチングの面が大きい。採用する側が求めている人材像と私の経歴は,かけ離れてしまったのかもしれない。普通に日本で韓国語の非常勤講師を続けていたほうがすんなり韓国語の専任講師になれたのではないかと思ったりする。

一方で,専任教員になって以降は,海外学振時代を含め,過去の経験が生きていると感じることが多い。抽象的でありきたりな言い方しかできないが,視野が広くなったということだと思う。

主語の大きな書き方だけど,こんなことを思う。

日本では,標準から外れたキャリアを歩むのはリスクが大きい。足場を固めるまでにとても苦労する。でもひとたび足場を固められれば,そこから先は人と違う経験を積んできたことが武器になる。

もちろん,個人的な経験にもとづく「感想」でしかないのだけれど。

海外学振はリスクなのだろうか

上では海外学振のメリットとリスクを書いてきたつもりだけれど,読む人,特にこれから大学院を修了する人にとっては,リスクの面が大きく見えてしまうかもしれない。実際のところ,海外学振にはどれくらいリスクがあるのだろうか。

私個人の苦労は,実際のところ海外学振によるものなのかはわからない。教員公募で落ちまくったのは,単に私の実力がなかったからかもしれない。ただ,それとは別に,日本に安定的なポジションを持たない状態で海外学振として海外に出ると,その後で国内の公募に応募する際に不利な面は,確かにある。

(1) 教育歴が積めない

日本の大学,とりわけ私の専門分野である言語系では,大学レベルでの教育歴が問われることが多い。国内の学振PDであれば,大学非常勤講師をすることが認められている。しかし海外学振は,海外に出て研究に専念しなければならないことになっている。私も大学院の最終年度に大学の韓国語非常勤講師をしていたが,海外学振に出るにあたってやめた。

(2) 書類の準備や面接の負担

エディンバラから日本の教員公募に出すために,日本から修了証明書とか卒業証明書とかをいろいろ取り寄せることがあった(そのために親や大学の後輩にずいぶん協力してもらった)。応募はたいてい郵送だったので,準備がぎりぎりになってしまったときは,高額のFedExで送ったりした(このあたり,最近は電子応募が増えてきたので改善されつつある)。そして面接・・・日本まで行くのは遠かった。

(3) まわりに気軽に相談できる人がいない

これがいちばん大きかったと思っている。上で,2年目の後半にIさんにメールで相談したことがその後のポスドクにつながったと書いた。国内にいれば,学会などで同じ業界の人と顔を合わせる機会があるので,そういう場で自分の近況や困りごとを気軽に話しやすかったかもしれない。顔を合わせる機会がないと,わざわざメールをしたりしなければならないので,相談の敷居が高くなる。もちろん,海外にいればその国の人と顔を合わせる機会は頻繁にあるのだが,そこで相談しても日本の公募にはあまり役に立たない。一方で,日本国籍を持ち日本語を母語とし日本で大学院まで出た私のような人間にとっては,日本の公募への応募が最も現実的だったのも,また確かなのだ。

(4) 海外経験は,分野によってはあまり評価されない

例えば私のように韓国語を研究対象としている場合,韓国以外の海外経験は公募においてあまり評価されないと思う。日本語学などでも同様だろう。私に関していえば,評価されなかったというか,むしろマイナス要因にすらなっていたのではないかと,個人的には思う(が,それについてはよくわからないし,検証のしようがない)。

ただ,これらの点をうまく克服できるならば,海外学振からの就職のリスクは,普通の大学院修了者の抱える将来へのリスクとあまり変わらないだろう。例えば,こまめに人に連絡したり,非常勤講師の空きがないかと聞いて回ったりすることだろうか。上にも書いたように海外学振から得られる経験はとても大きいので,うまく問題が克服できるならば,メリットのほうが遥かに大きくなるだろうと思う。

採用する側に望むこと

ここまで海外学振に応募するかもしれない若手の人たちへのアドバイスという感じで書いてきたけれど,もう若手ではない私としては,リスクを若手にばかり押し付けてはいけないと思う。もしこの文章を,もう若手ではない専任教員の人たちも読んでいるならば,ぜひ一緒に考えてほしいと思う。

公募は電子申請にしよう。証明書の類は応募段階では求めなくていい。面接も,(特にテニュアトラックや任期付きのポジションだったら)Zoomなどでいいと思う。

語学関係の分野だと教育歴が重視されがちなのだが,教育歴はそもそも必要なのだろうか?教育経験の長さと教えることの上手さには,どれほど相関関係があるのだろうか?教育の能力を見たければ,模擬授業をしてもらえばいい。

おわりに

上に書いたことの繰り返しになるけれど,海外学振を含め,多様な経験を積むことは,将来において武器になる。自信にもなると思う。

ちなみに,私はもうすぐサバティカルで海外に行く予定だ。長期で海外に行くのは,海外学振をしていた十数年前以来だ。今度はアメリカ・カリフォルニア州アーバイン。エディンバラと違って温暖なところらしい。そして今度は,子連れでワンオペだ。(妻は仕事のため日本に残らなければならない。)子連れで,ワンオペで,しかも,アメリカというこれまでの人生で数回しか行ったことのない国に行くので,不安は多い。ただ,独身の頃に英語圏での研究生活を経験していなかったら,今回のサバティカルはもっとハードルが高かっただろうと思うし,こういう決断にはそもそも踏み切れなかったかもしれないとも思う。そういう意味でも,海外学振の経験は生きている。

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