ある農夫の一日ってどうなのさって話
最近続けざまに「ある農夫の一日」という教訓を目にする機会がありました。元ネタは分からないのですが、こんなやつです。
ある農夫が、朝早くに起きて畑を耕そうとした。
ところが、トラクターの燃料が切れていたので、近くまで買いに行こうとした。
途中でブタに餌をやっていないことを思い出して、納屋に餌をとりにいった。
すると納屋に置いてあるジャガイモが発芽しているのを発見した。
これはいけないと思い、ジャガイモの芽を取っているうちに、暖炉の薪がなくなっていることを思い出して薪小屋へ足を運んだ。
薪を持って母屋へ向かっていると、ニワトリの様子が変である。どうも病気にかかったらしい。取り敢えずの応急処置をほどこして、薪を持って母屋にたどり着いた頃には、日がトップリと暮れていた。
農夫は、やれやれ何とせわしい一日であったかと思いながら、一番大切な畑を耕すことができなかったことに気がついたのは、床に入ってからであった。
ここから
「目的を意識しましょう。畑を耕したかったんですよね? そのことを忘れちゃいけませんよ」
という教訓を導き出していたわけなんですけれども。
ちょっと待って、見失って良かったんじゃない?
農夫が目的を見失っていなかったとしたら、こうなっていたはずです。
ある農夫が、朝早くに起きて畑を耕そうとした。
ところが、トラクターの燃料が切れていたので、近くまで買いに行こうとした。
途中でブタに餌をやっていないことを思い出したが、初志を貫徹して燃料を買いに行き、畑を耕すことにした。
畑を耕すことはできたが、ブタは餌をもらえず、納屋のジャガイモは発芽してダメになり、夜になってから薪がないことに気付いて困った。
そして翌朝、ニワトリが病気で死んでいるのに気が付いた。
畑は耕せました。
が、トータルで見た時、それはプラスと言えるのでしょうか?
たしかに当初の目的であり重要な「畑を耕す」は達成できませんでしたが、ブタの餌も、ジャガイモのケアも、薪の確保も、ニワトリの応急手当も、すべて「緊急かつ重要」な案件です。
当初の目的を曲げてでも、これらを思い出し、こなすことは適切な判断だったと言えるのではないでしょうか?
イマイチなたとえ話の弊害
「目的を意識しよう」
というのは、とても大切なことです。
その結論にはまったく異論はありません。
しかし、たとえ話がイマイチなのではありますまいかと。今回のケースでいえば
「当初の目的に囚われず、臨機応変に動いて良かったね」
という解釈もできてしまいます。
っていうか、私にはそのようにしか見えませんでした。
たとえ話は、うまく使えばこちらの意図を分かりやすく相手に伝えられるという効能があります。中国古典などはそれをうまくやっていて、たとえば
「ワシは隣国の王より善政を敷いていると思うんだが、なぜ隣国の民はうちに引っ越してこないんだろう?」
「戦場で二人の兵士が逃げました。一人は50歩逃げて踏みとどまり、一人は100歩先まで逃げました。50歩逃げた兵士が、100歩逃げた兵士を臆病者と笑ったらどうでしょう?」
「逃げた以上、どちらも臆病者だろう。50歩も100歩も関係あるまい」
「あなたが言ってるのはそれと同じことですよ。多少の差なんか意味ありません」
「なるほど」
ご存じ、五十歩百歩という慣用句のもとになったやりとりです。
これは、逃げた兵士の話がたとえ話として秀逸だったからこそ成立したのであって、「ある農夫の一日」はたとえ話の方に色々ツッコミたくなってしまって、本題がかすんでしまう恐れがあるのではないかなあ、と。
そんな捻くれたこと考えるのは、私くらいのモンすかね?
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