記憶の中の一冊
『スピン/spin 第2号』「そして金魚鉢の溢れ出す午後に、」(恩田陸)と「絶版本書店 手に入りにくいけどすごい本」(酒井駒子)を読んでいて、ふと、ある記憶が蘇った。
それは朧気で、本当に現実だったのだろうか、とすら思うこともある遠い彼方の記憶だ。
小学校の高学年だったと思うのだが、友人と学校の図書室で「誰も読まなそうな本を探して読んでみる」という遊びをしたことがあった。
そこには本や作者に対する敬意などなく、どちらかといえば、そのような本を揶揄するような感覚だったと記憶している。
そんな中で私が選んだ本は、以前から「誰がこんなん読むんだ?」と思っていたもので、表紙は色褪せ、本文用紙も変色し、全体的に埃っぽく薄汚れており、正直「触りたくないなぁ」と思わせる佇まいだった。
貸出表を見ると過去に数人しか借りた人がおらず、最後に借りられてから10年近くの年月が経っていたと思う。
そんなところも嘲弄しながら、その場で読み始めたのだが、すぐに自分の過ちに気づいた。
読み始めてすぐ、その物語に惹き込まれたのだ。
その本のタイトルも作者も思い出せない。内容もほとんど忘れた。
ただ自分より少し年上の少女が主人公で、心を締め付けられるような、繊細で切ない物語だったということだけは覚えている。
また、今までそのようなジャンルを読んだことがなく、こんな世界があるということに軽い衝撃をうけた。もちろんすぐに借りた。
「なぜこんなに素敵な本を誰も読まないのだ」と軽い憤りすら覚えた。随分と身勝手なものだ。
そして、私の記憶はここまでだ。
何かの拍子にこの出来事を思い出しては手掛かりを求めてしまう。もっと詳細に思い出せないだろうか、と記憶を探ってみるが、考えれば考えるほど記憶を捏造してしまいそうで、また、当時好きだった他の物語と混同してしまう気がして考えることをやめてしまう。
そもそも小学生だったという記憶すら疑わしい。中学生だったかもしれない。
でもその本を読んだときの驚きと哀感は、今も確かに胸のうちにある。
小学校を訪ねてみようか、と思ったこともあるけれど、いくら田舎の学校で卒業生だとしても、この時代に部外者が校内に入れるとは思えない。そもそも図書室の本だってすっかり入れ替わっているだろう。
そして何よりも、あの閉鎖的な地域に戻ることへの怖さがある。小学校時代の苦々しい思い出も甦る。
それでも、やっぱり、気になる。あの本に再会したい。もう一度読みたい。
表紙は桃色で、カバーは紙ではなくビニールが掛かっていた。
文学シリーズだったのか、同じ装幀の本が何冊かあったが、それぞれ別の物語だったはず。
作者は女性で、出版は昭和50年前後か。
……こうやって書いてみると、呆れるくらい手掛かりは無いに等しい。
もう記憶から消え去りつつある十代前半の貴重な一場面として、ひっそりと心の隅に置いておくくらいがいいのだろうか。
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