格闘ゲーム初心者が語る『対ありでした。』の魅力
蘆原流対空
頃は平成13年、所はこの島国の隣国、大韓民国ソウル市蘆原(ノウォン)区。その街に住む若者の中で「NEO-GEO」のロゴと起動音を知らざる者を見つけたら、北朝鮮から送られたスパイだと言われたもんだ。ゲーム制作会社SNKが作り出したアーケード基板「NEO-GEO」はどれも名作揃いだが、蘆原区の若者たちがその青春を注いでいたのは、他でもないオールスター対戦格闘ゲーム『King Of Fighters』シリーズであった。
その頃、世にネットは普及していたものの、対戦格闘ゲームをモデムやLAN線に繋いでやることはまだ夢の中の夢。全国統一のルールなどなく、自治的で暗黙的なローカルルールに従わぬ者はゲーセンで悪評を買い、対戦を楽しめなかったという。それは蘆原区でも変わらなかったのだ。『King Of Fighters』シリーズでは「ジャンプ攻撃」に対して「対空技」だけではなく(『対ありでした。~お嬢様は格闘ゲームなんてしない』2巻の5話後に収録されたメモを参照すること)、「アッパー」というもっと簡単なコマンドで出せる対空技があった。
ところが、この「アッパー」のせいで対戦は防御的になりがちだったため、ローカルルールとして禁じられていた。だが、求める者に道はあり。一部のキャラクターは、基本技である強パンチ(C)の打点が高いことに気づいた者が現れ、ただの強パンチで対空することになった。当然、若者たちはその新しい技を極めた。対戦格闘ゲームをあまり知らない、またはゲーセン時代になんて生まれてもいなかった、そういう方のための詳細は省略するが、この技には「アッパーなし」のローカルルールを回避するだけではなく、敵の隙を作らせるメリットもあったため、全国大会でも通じたと伝われている。人々はその技を、「蘆原流対空」と名付けたのであった。
格ゲーコンプレックス
何を隠そう、この私、蘆原・ネプ・四七は――その名通り、大韓民国ソウル市蘆原区の生まれ育ちである。それに1990年代生まれ。当然の如くゲーセンに通っていた。だが、格ゲーの実力は絶望的だった。というより、私にとって格闘ゲームは「野蛮」であり「コインの浪費」であったのだ。
格闘ゲームの何処が「野蛮」なのか。誤解しないで欲しいが、ゲームの描写が暴力的だからではない。これはあくまでその時代の話だ。ゲーセンである以上、1人で遊ぶことはほぼ不可能である。1人で遊ぼうとしても、誰かがコインを入れれば対戦を避けられないのだ。その上、ランクマッチの概念なんて存在しない、それこそ自分の実力に合わない者に遭遇することは珍しくなかった。ここまでは「ゲームの内側」の話だ。
当時の「ゲームの外側」も考えなければならない。「蘆原流対空」という名前があるぐらい、この街でゲーセンに通うプレイヤー層の平均実力は(私と同じ歳の友達さえも!)かなり高かったのだ。それに『KOF』シリーズはジャンプの種類も多く、瞬間移動技を持つキャラクターも多い。子供の私が何かを学ぶにはあまりにもハードルが高かったのだ。また、ゲーセンには「野蛮」な騒ぎがつきものである。ずるい技を繰り出したり、性格が短気な人が負けると「お前、外に出ろ!」と大声が響いたり、プレイヤーがゲーセンの椅子を持ち上げたり、手を叩くリアル・レスリングの光景も時々見かけたのだ。
それだけではない。小遣いにはあまり恵まれなかった私にとって、コイン1つは大事な大事なものだった。クリアなどが目的ではなく、ただ遊ぶためなら格闘ゲームより「もっと長く遊べる」他のゲームもいくらでもあった。「コイン3玉」ぐらいでラン・アンド・ガン、ベルト・スクロール、シューティングなどなど他のゲームをいくらでも遊べる。わざわざ格闘ゲームに拘る理由なんてなかったのだ。
もちろん、全然プレイしていなかった訳ではない。今まで続いている『KOF』シリーズ、『TEKKEN』シリーズ、『Guilty Gear』シリーズは勿論、『Bloody Roar』シリーズや『超鋼戦紀キカイオー』まで格闘ゲームは色々触ったが、興味本位でキャラを動かすぐらいに過ぎなかった。それに、韓国でPC及びネットカフェ文化が普及してからは、私にとって格ゲーはよりいっそう近づく必要のないジャンルになっていた。格ゲーなんて野蛮で、お金が掛かり、なお学ぶこともない、雑音に過ぎなかった。そんな私に――
お嬢様は格闘ゲームなんて「当然」しない?
――『対ありでした。~お嬢様は格闘ゲームなんてしない』(以下、『対あり。』)という漫画が現れた。私は反射的にこう口走った。
”そりゃ、お嬢様は格ゲーとか当然しないだろう”
と。お嬢様がそんな野蛮な環境に囲まれ、金銭の浪費金銭の浪費を繰り返し、暗いゲーセンに通うことはありえない。
だが、それは私の偏見に過ぎなかった。本作を読んでみると、私が経験した状況と登場人物の状況が大分違うことに気づいた。
まず、キャラクターたちの背景には、プレイステーションと思われるコンソールで、みんなが部屋に集まってゲームをしている「わくわく」感があった。PCが普及したせいで、逆に「PCがあるのに何でゲーム機なんて必要なの?」という認識が広まった韓国ではあまり見ない光景であった。そう、登場人物たちにとって格闘ゲームは「男性の友達がよくやる遊び」ではあるが、大事なコインを入れては5分も持たず「You lose」という文字が画面に浮かび、子供が泣いてしまうような「野蛮」極まるモノではなかった。
そして、もう一つ。私はこの漫画の中のゲームのモデルになっている『ストリートファイター』シリーズを遊んだことがなかった。今になってはちょっと違うが、まだゲーセンが全盛期であった時代に何故か韓国で『ストリートファイター』はそこまで人気がなかったのだ。格ゲーの二大山脈といえば、とにかく『KOF』と『TEKKEN』だった。『KOF』と『TEKKEN』は格ゲーの世界でも学びにくいことで有名である。それに比べれば『ストリートファイター』は相対的に入門に優しいゲームなのだ。
このような格ゲーコンプレックス持ちの私から見れば、彼女たちは全然違う世界にいた。どう比喩すれば良いだろう。例えば、「毎晩殴り合いする若いお嬢様たちのファイト・クラブがあるらしいぞ!」と聞いて見に行ったら、放課後の公園で普通にカンフーの稽古をしているお嬢様たちがいた訳だ。作中表現でいう「格ゲー氷河期」の時代で既に絶滅したサンヨウチュウみたいな私としては、ルール無用で椅子で叩かれたり鼻血が出るほど殴られたりすることなく、かすり傷が残るくらいの運動――それさえも「お嬢様」たちには似合わないかも知れないが――という感じだった。
だが、これは格ゲーに対して経験がある「内側」の人間からの観察に過ぎない。殴り合いだろうがカンフーの稽古だろうが、ただの通りすがりの人々=「外側」の人間にとっては、どちらにせよ暴力的な「ストリートファイト」なのだ。そして、ここに『対あり。』の工夫と魅力がある。本作は、「外側」の方が持つ認識のギャップをどうやって埋めるか、もしくはそのギャップをどのように活かしながらも「内側」にいる層も魅了するか、という問題を解決しながら物語が進んでいく。また、百合ジャンルとしての需要と格ゲーが持つ性質をリンクさせ、独特な味を出すことを試している。そこで、ちょうど去年の6月に『ストリートファイター6』に挑戦し格ゲーコンプレックスを克服した私が、「内側」と「外側」の境界にギリギリ立っている格ゲー初心者として、具体的にどのような解決策が提示され読者たちを魅了したかを、この記事で論じてみよう。
学園ものには学園ものをぶっつけるのだ:「πセン」という組み合わせ
上に述べたような「内側」や「外側」のギャップ問題について、作者も同じく問題意識を持っていた。これは『対あり。』2巻のあと書きの、「そうした配信でよく話題にあがるのが“あの頃のゲーセン”のことです」という言及からも確認できる。そこで単にネットを通じてやり合うだけではなく、お嬢様学園に属している寮の中に対面でプレイ出来る隠し部屋を作ろう、というコンセプトが生まれた訳(「私が“思った”ゲーセンを描こう」)だろう。
確かに、E-sportsやオンライン対戦が流行り、ランクマッチという言葉が定着している時代に「ゲーセン」をそのまま出しても現実味は足りないだろう。このため『対あり。』では「女子寮モノ」または「お嬢様学園モノ」とも言うべき学園モノのジャンルがメインになっている。厳しい規則の中で、こっそりと秘密を共有する仲間同士が集まって徹夜して自分たちが好きなことを楽しむ、というのは「格ゲー」が素材でなくても魅力的な空間であろう。
もう一つ、隠し味とも言えるべきものがある。それが「不良モノ」なのだ。物語が進行する度に『対あり』で「不良」の気配が増していくが、まずもって主になるゲーム『πセン』がそうである。『πセン』は、そのゲームシステムの描写からして『ストリートファイター』を元にしているように見える。勿論、それだけではなく、例えば「Fatality」などの決め文句は『Mortal Kombat』シリーズ由来であり、あらゆる格ゲーにリスペクトを捧げている。
だが、ここで重要なのは『Iron Senpai4』というタイトルを挙げ、まるで(『ストリートファイター』シリーズと同じくCAPCOMが制作した3D格ゲーである)『ジャスティス学園』シリーズを思わせるような学園モノに仕上げたことにある。そこでプレイヤーブル・キャラクターたちは戦闘的な「先輩」たちと表現され、必殺技で「脳みそブチまけろオラァ」だの「八つ裂きにしてさしあげますわ」だの、物騒なセリフが繰り返されている。書記や先生が登場するなど、不良だけの世界ではないがここには「不良」っぽさが漂っている。この時点で既に「不良モノ」は『対あり。』を静かに浸食しているのだ。
それだけではない。格ゲーの特殊用語の読み方をルビ文字で表現しているが、それと同時に「対戦(や)りましょう」や「“格ゲーマー(同類)”」など、「不良モノ」でよく使われるような隠語の表現方式に従っている。作品が展開することにつれて実際に格闘で親子が戦う場面、「⁉」などの表現方法、髪型がリーゼントのキャラクターが登場するなど「不良モノ」の世界が「お嬢様学園モノ」の世界と共存するようになっている。だが、どちらにせよ「学園モノ」という共通性のおかげで違和感はあまりない。このように違う世界・文法が混ぜり合うことによって「外側」と「内側」の認識のギャップをなくしている、もしくは「外側」の認識による解釈と「内側」の認識による解釈(のズレ)が共存している。
この手法を極めた場面が『対あり。』5巻の86ページから92ページの逆転劇である。この場面は、実は「背水の逆転劇(Daigo Parry)」を『ストファ4』システムで無理やりに再現した場面である。「背水の逆転劇」とは、EVO2004の『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』の部門でJustin Wongさんと梅原大吾さんとの対戦中、梅原さんがブロッキング(パリィ技)を必殺技に正確に合わせて逆転した状況を示す。この場面は格ゲーを良く知らない人でも「見たことある動画」と言われるほど、有名になった。知らない人は4月8日にJustin Wongさんがまた同じことをやられた、上の動画を参考にすると良いだろう。
だが、『πセン』が元にしている『ストファ4』にはブロッキング・システムが実装されていない。その代わりに、「鋼先輩」というキャラクターに「谺」という無敵技が新しく実装されている。登場人物「夜絵美緒」の相手である「カフェオレ」が対応出来なかったのも、大会の直前のアップデートによる実装だったので予測できなかったという風になっている。つまり「外側」としては「あ、これ、有名なあの場面」となり、「内側」としては「なるほど、あの場面をこうアレンジしたのか」と納得する、二つの解釈(ズレ)が平行するようになっている。また、「カフェオレ」が典型的な「不良」の恰好をしており典型的なお嬢様の姿の「夜絵美緒」と並べていると違和感を感じざるを得ないが、『π先』の登場キャラクターたちは「不良」っぽい感じで登場し『対あり。』の世界での橋のように機能する。つまり、モニター画面の外側に一方には「不良」そのものが、もう一方には「お嬢様」そのものがいるにも関わらず、モニター画面の内側では「不良」だとは言い切れないが「不良」っぽいキャラ二人が立っていることでグラデーションのように、キャラクター各々の造形で生まれるギャップを埋めているということだ。
たったの「60分の1」秒で語り合う濃密な会話としての格ゲー、そして百合
ちょっとした自慢話だが、私は自分をためらうことなくゲーマーと呼ぶ自信がある。特に戦闘に特化した「スペクタクル・ファイター」あるいは「スタイリッシュ・アクション」ジャンルについては、圧倒的なスーパープレイは出来ないが、少なくとも「専門」と言って恥ずかしくはない。『Devil May Cry』、『Bayonetta』、『Ninja Gaiden』など、三大スペクタクル・ファイター・シリーズの履修は勿論、『Zone of Enders 2:Anubis』や『Metal Gear Rising:Revengence』、『サムライジャック:時空の戦い』などもかなりプレイした。今も『God Of War3』のリマスターと『お姉チャンバラ:ORIGIN』がプレステ4でクリアを待っている。
だが上に述べたように格ゲーだけはどうしても馴染めなかった。チームニンジャというスタジオのゲームにハマって、彼らが作った『Dead Or Alive』(以下、DOA)の新作である6番目のタイトルもプレイしてみたが、イマイチ、ピンと来なかった。今になってプレイしてみれば確かにDOAシリーズも面白いゲームではあるが、自分と同じレベルのプレイヤーと戦う時に一番輝くゲームである。
何故この「同じレベル」がそんなに重要なんだろう。勿論、これは全ての対戦ゲームにとって言えることではある。FPSであれMOBAであれ、とにかく実力が合わない相手との闘いは、自分より実力が低ければ単に怠い作業に過ぎなくなり、自分より実力が高ければ何が起こったのかも把握出来ないままボコボコされるからだ。今になっては大体の対戦ゲームにはランクマッチ・システムがあり、同じレベルのプレイヤー同士を戦わせるようになってはいるが、熟練された低ランクプレイヤーと新参者の低ランクプレイヤーの間には流石に違いがある。そして、格ゲーではこの傾向が凄く強い。他の格ゲーである程度の経験を積んでいる者は、如何にシステムが違うとも、完全初心者よりははるかに早くまた高くそのタイトルへ馴染むことが出来る。それには2つの理由がある。まず、格ゲーは「1対1」が基本であること。そして「全ての行動が意味を持つ」(はずである)ことだ。
FPSも初期にはほぼ「1対1」、もしくは全員がお互い敵であるデスマッチが基本であった。だが、フラッグ戦(あるキーアイテム=旗=フラッグを自分のチームの領域に持ち込むと勝つルール)が基本となり、チーム戦要素は強くなっていった。バトル・ロイヤルなどのルールも最近まで流行っていたが、やはりチーム要素を完全に排除したとは言い難い。MOBAは言うまでもなくチーム戦を前提にしている。どのゲームであれ対戦になると心理戦はかなり重要なものになるが、チーム戦の場合にはチームメンバーとの連携がより重視されることになる。
それに対して、『スマッシュブ・ブラザーズ』シリーズのような珍しいケースを除ければ、格ゲーはほぼ「1対1」であることが想定されている。また、一部の格闘ゲームでは戦いの直前に自分のキャラを動かし、距離を置く・縮めることは出来る。だが、タクティカル・シューターである『Rainbow Six』シリーズのように事前準備行動が可能なものではない。その結果生まれる時空間は、文字通り「二人だけの世界」*である。そこでの心理戦は全てが自己責任であり、他のゲームでの重圧感を遥かに超えることになる。また、伝統的な戦略ゲーム(囲碁・チェス)やTCGなどのターン制のゲームとは違って、リアルタイムで操作し、かつ大体の場合90秒という短い時間で1ラウンドが終わる構成によって、格ゲーではさらに相手との「読み合い」の緊張感が濃密になる。言っておくが、これは他のジャンルより格ゲーが心理戦に深みがあるということではない。伝統的な戦略ゲームやTCG、そして韓国で圧倒的な人気を誇ったRTSなどはあらゆるフェーズとそれによる対策があり、心理戦の深みはそこしれない。だが、たった90秒、概ね3戦2勝制で3~5分の1セッションが終わる格ゲーは、圧縮された緊張を与えるジャンルである。
*このような、ゲームでの一時的な時空間を学術用語では「マジック・サークル」と呼ぶ。
格ゲーでプレイヤーがこのような集中力を発揮し、濃密な「会話」をすることを、『対あり。』は見逃さない。まさに今に開催されている「EVO Japan」に基づいている「EXjp」大会のエピソードでは、凄まじい集中力を発揮する「夜絵美緒」が水に沈んでいくような場面が繰り返し描かれる。「百合」と言えば「水族館」と言えるほど「水」のイメージと親しみがあるのは読者の皆さんはご存じだろう。言い加えると、そのような「水」、または「水の底に沈んでいく」というイメージには、歴史の悲劇である「女性同士の心中」事件と重なりがある。その上、「夜絵美緒」は鼻血を出しながらゲームをしているが、「水の底に沈んでいく」ことを考えれば、「水圧」による耐えがたい苦痛とも繋がるだろう。
だが、「夜絵美緒」は孤独でも自己破壊的でもない。
格ゲーには、同じ「目線」で「2人だけの世界」を生きる相手が存在するからだ。
上にも述べたように、格ゲーは「全ての行動が意味を持つ(はず)」とされている。これについては、他の対戦ゲームをしている人から見れば「そりゃ、他のジャンルもそうじゃないか?」という風になるだろう。だが、格ゲーにおいてこの傾向は特に著しい。何故ならば、格ゲーは伝統的な戦略ゲームと同じく「空間を占拠する」ことで莫大な利益を得るゲームだからである。
格ゲーというと、普段人々は上の動画のように1人が画面の端っこまで追われ一方的にやられる場面を考えやすい。何故だろうか? 何故画面の端っこにまで追われることはまずい状況なのか? それは、2D格ゲーであれ3D格ゲーであれ、本質的に「X軸を占拠する」ことが勝負に勝つために重要だからである。勿論、『スマッシュ・ブラザーズ』のようにY軸の空間占拠も重要となる、あるいは完全なる3D空間で戦う『For Honor』や『Absolver』などの例外もあるが、まさに例外でありこの記事では除外する。
多くの格ゲーにおいて、防御行為を繰り返すと少しずつ画面の後ろに下がるようになっている。これは「必殺技」や「投げ」などの行為でダメージを食らわない限り、別にペナルティーではないだろう、と思う人がいるかも知れない。だが、こうやって防御だけ繰り返すと、そのプレイヤーが使える空間がどんどん減っていくことになる。格ゲーで技のリスク・リターンはダメージ・発動時間(=発動フレーム)・リーチなどで決められる(キャンセル出来るかどうかもあるが、これは中・上級の話)。大技はかなり距離があっても敵に届く。ただ、その発動時間は他の技より長く、相手が遅く出してもリーチが届くのであれば発動時間が早い技に負けるような仕組みになっている。
つまり、プレイヤーが防御だけ繰り返すと、後ろに下がることによりX軸での空間を失い、相手に対応すべき「選択肢」も狭くなる。チェスで例えると、「キング」を捕まえない限り勝利することは出来ない。また「ポーン」1匹を失うこと自体は大したことではない。だが、「ポーン」を失い続けると、多様な戦略を取ることが出来なくなり、結局は負けに近づくことになる。ここで、改めて「全ての行動が意味を持つ(はず)」という言葉を思い出して欲しい。プレイヤーのキャラクターがただ立っているだけでも、ある空間を占拠していることには変わらない。歩くことさえもX軸を侵略する行為であり、そこで攻撃や必殺技などの積極的な攻撃、侵略する風に見せかけ実は退散するというブラフを咬ますなど、「意味ある」行為を繰り返すのが格ゲーな訳だ。格ゲーは通常、画面上に1秒に60コマが更新され(60Frames Per Second)、理論上プレイヤーたちは60分の1秒ごとに選択を迫られる。
ここまで読むと「格ゲープレイヤー同士の戦いとは凄いもんですね」と思うかも知れないが、実は(はず)という言葉と「目線」を忘れてはいけない。ゲームがそう設計されていても、プレイヤーがその意味を知らなければ、ただの殴り合いに過ぎない。格ゲーでは高レベルのプレイヤーが時々自分より凄く低レベルのプレイヤーにやられることがあるが、それは高レベルのプレイヤーが「こうすること目論んでこの攻撃したのであろう」とか「こう仕掛ければあっちの理想的な対応はたった2択!」という状況を作り出しても、低レベルのプレイヤーにはその意図が伝わらず、「練習したとおりの技を出せば良いだろうな」と操作して勝つ訳だ。
このような格ゲーの状況を、『対あり。』は「百合」要素と重ねている。相手の意図を読み、時にはある行為を誘導したり、ブラフでそれを回避するなどの濃密な「会話」をするためには、まず相手と同じ「目線」に立つことが必要とされる。格ゲーの外側でどのような感情を持っていようが、モニターの内側での「会話」はいくつかの操作に制限されており、なおかつ実力を要求する。
そのため、ある人物(「深月綾」の場合)はゲームの外側ではどんどん近づいても、ゲームの内側では置いて行かれるような気持ちを抱いたり、とある人物(「亜里沙」の場合)はゲームの内側での「会話」を成立させるために、ゲームの外側の価値観を捨てたりする。このように、『対あり。』は格闘ゲームと百合を重ねているのである。
『対あり。』では、モニター外の出来事とモニター内の出来事が分離されている訳ではない。かと言って、モニター外の出来事とモニター内の出来事がそのまま直結されている訳ではない。二つの層が揃い、重なり合うことで、キャラクターの変化や成長、そして物語の進行が行われている。上にも述べたように、百合的な「2人だけの世界」はゲームの「マジック・サークル」で起きる。だが、元々この用語は名前の通り「ゲーム内の結果は実はゲームの外の結果に直結しない」魔法のようなものとされ、批判を受けることもある。一時的に魔法のような時空間が作られることは確かだろうが、その時空間が何の跡も残さないまま消える訳ではない。『対あり。』が放つ魅力はそのような批判を超える、外の世界と内の世界が重なったまま共存することだ、と格ゲー初心者の私は思う。