独断と偏見に満ちた愛を語るとき
このnoteの大前提。”心くすぐる愛すべきレトロ”を紹介すること。
ここでの”心くすぐる”とか”愛すべき”とかはもちろん、独断と偏見であって、「少なくともわたしにとっては」という修飾語のついた、愛すべきレトロを紹介している。
レトロ建築を紹介するときに、持ち主の許可を取りに行くのだが、皆さんの第一声はだいたい同じ。
「なんでこんなものがいいの!」
中には「あんた相当変わってるね~」と面と向かって言ってくる人もいた。(結構好意的なニュアンスだったのでそれはそれで嬉しい。)
あるとき、「この建物が素敵なので…」まで話したところで「素敵ではありませんので、ダメです。」とピシャリと言われた。有無を言わさぬ気迫。その方にとっては体のいい断り文句かもしれない(本音はわからない)。そこからわたしは食い下がってお願いすることも出来ずに、ただただ重い足取りで、そしてぐるぐる考えながら職場へ戻ったのだった。
たしかに。
なんでこれが素敵なのか。
なんでこれがいいのか。
「なんかいいんですよ。」
だけじゃまるで説得力がない。人様の持ち物にずけずけとコメントさせてもらうくせにそんな説明もできないなんて。
もちろん、「この建築のこの部分がとっても素敵なんです。」と用意した仮記事を見せながらお話しするつもりだった。だけど、その前に気づいてしまったのだ。自分の心の動きだけで盛り上がってるだけだと。
そして、その心の機微を自分でもきちんと理解しないまま勝手に舞い上がり、突っ走っていると。
そもそも「なんでレトロを好きなのか」なんて掘り下げたことなかった。
なんでなんだろう。ぐるぐる考える。
ぐるぐる考えながら、ビートルズのPVをYouTubeでぼーっと眺めていると、あの伝説のルーフトップライブの映像が流れてきた。そこで、ふと思う。
「カメラマンのしょってるフィルム大きすぎん?」
「え?1970年ってビデオフィルムがあんなに大きかったの?」
そうか分かった。そういうことか。
私は「古いから好きなんだ」と思い込んでいた。
違う。新鮮なんだ。
“古いものが現代にある違和感”を楽しんでいるんだ。
今を知っているから昔を面白がれるんだ。
小さなiphoneで簡単に動画撮影ができる時代に、あの大きなビデオフィルムを見てそう思った。
ツルツルピカピカの建築を知っているからこそ、ざらついてくすんだレトロ建築に心くすぐられる。
ハイレゾのクリアな音楽を聞いているから、レコードの古い紗のかかったようなサウンドに驚く。
タイピングやフリックで文字を書き起こせるからこそ、万年筆の引っ掻くような書き味が楽しい。
全ての興味は今と昔の相対化にあった。
昔当たり前に使われていた建材は、現代では当たり前のものではなくなってきている。時代と共にコストパフォーマンスや機能性の良い材料に置き換わってくる。昔の建築で使われていた建材や工法を利用したり、レトロな雰囲気を新しく作ろうとするとかえって高くついてしまうこともよくある話だ。
木枠のガラス戸やふんだんに使われたタイル、コンクリートの杉板型枠、モールガラスなどなど、わたしが設計士をしていたときには手間やコストの関係で泣く泣く諦めたものたち。それらの技術がいかに貴重で手間のかかるものかを知っているからこそ、レトロ建築の手触りに私は心くすぐられるのだろう。
そして、昔のこの街のことを楽しそうに話してくれる方がいる。今の街の雰囲気からは想像のつかないエピソードがどれも素敵で、建築に血が通って見える。体温を感じる。
手間と手触り。そして体温。
これらを感じられるレトロが愛おしい。
これからは、主観の「素敵な」ではなく、「この建築がつかわれていたとき」に主軸をおいて取材を進めていけばいいんだ。そうすれば自ずと「素敵な」部分は共感しあえるはずだ。
独断と偏見に満ちた愛を語るとき、盲目になってはいけない。
愛するもののストーリーに耳を傾け、それがいまここにある素晴らしさを語りたい。