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神官と秀才、幕末の京に散る ~真木和泉、久坂玄瑞の絆~ 第2話 寺田屋騒動

第2話 真木和泉、薩摩で西郷隆盛に会えず上京 寺田屋騒動で収容される


長崎・小浜温泉の旅を満喫した真木和泉と妻・睦子に翌天保10年(1839年)10月、長女・小棹が誕生。天保14年(1843年)9月に四男・菊四郎が生まれた。

和泉が水戸藩に遊学したのは弘化元年(1844年)32歳の時だった。尊王攘夷思想が強い水戸学藤田派の学者・会沢正志斎に学び久留米藩内に尊攘派の天保学連を結成。弘化3年(1846年)には第10代藩主・有馬頼永に藩政改革意見書を上奏するも、頼永が急逝。天保学連は和泉ら外同士と内同士に分裂する。

山梔窩で暮らすなか志士たちと交流す

嘉永4年(1851年)第11代藩主・頼咸に藩政改革意見を上書。翌年2月に外同士で人事刷新を企てるが保守派の反発にあう。「嘉永の大獄」により和泉は5月に謹慎処分を命ぜられて下妻群水田村(筑後市水田)まで南下。茅葺き屋根の家を「山梔窩(さんしか/くちなしのや)」と名づけておよそ10年の蟄居生活を送るが、この間に尊王志士として大きな存在になっていく。

平野国臣(福岡藩出身)や清河八郎(庄内藩出身)、宮部鼎蔵(熊本藩士)など後の歴史に名を残す人物が和泉を訪ねてきた。平野は浦賀のペリー来訪や長崎におけるイギリス使節の現状を知り国を憂いて脱藩した熱血漢で、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)と親交がある。清河は京で浪士団を結成して新選組誕生のきっかけを作ったことで知られ、宮部は長州藩の吉田松陰と知り合い兵学者・山鹿素水に学び、その後は京で活動するが池田屋事件で自刃した。

和泉は蟄居中でもそのように志士たちや山梔窩で教えた弟子たちから情勢を聞くことにより見聞を広める。やがて薩摩藩・島津久光が兵を率いて上京するとの噂を聞き、文久元年(1861年)12月に平野・清河と討幕に向けて計画を立てた。しかし頼りの薩摩は朝廷と幕府を結びつける公武合体を推進していることが分かる。和泉はそれでも翌年2月に薩摩に向けて発ち大久保一蔵(利通)小松帯刀に会うが受け容れられず、西郷とは面会さえ果たせなかった。

薩摩を出た和泉は佐賀関(大分県大分市)から船で馬関(山口県下関市)に渡り大坂天保山に着いたのは4月21日。22日には薩摩藩・有馬新七土佐藩・吉村寅太郎など諸藩の志士40名余りが集結。幽閉中の青蓮院宮(中川宮)をお救いして勅命により公武合体派の島津久光を説得することで討幕断行を決意し、真木和泉が第一隊の総督となった。23日、京都伏見の寺田屋に集まった時のことだ。公武合体を目指す久光は有馬新七たちの暴発を封じようと奈良原喜八郎ら8名を鎮撫使として向かわせ、薩摩藩士同士が対峙。寺田屋騒動が起きた。


寺田屋騒動を機に久坂玄瑞と再会す


「和泉守…」

長州藩・久坂玄瑞が東洞院・薩摩藩邸に拘置されていた真木和泉を訪ねてきたのは寺田屋騒動の翌日だった。和泉は四男・菊四郎と同年代(久坂が約2歳上)の好青年に親近感を覚え、久坂も“今楠公”と呼ばれる和泉を尊敬していた。生涯の師である吉田松陰もまた楠木正成に強く影響を受けていたからだ。

久坂玄瑞は18歳の時に吉田松陰の妹・文(当時15歳)と結婚、志士として奔走する間も数々の書簡をしたためた。文久2年5月には「久留米の真木和泉という神主の娘が詠んだ歌は素晴らしいです」と和泉の長女・小棹が恋仲だった平野国臣が上方に発った際に詠んだ「梓弓(あずさゆみ)はるは来にけり武士(ますらを)の花咲く世とはなりにけるかな」を紹介して「和泉守というのは、私も非常に心やすい男であります…」とも記している。

『三人の志士に愛された女 吉田松陰の妹』原口泉/『幕末動乱の男たち(上)』海音寺潮五郎


そんな親子ほど年の離れた両雄が意気投合して討幕に向けて突き進むことになるが、まだこの時は和泉が収容されている身だった。やがて久留米に送還され拘禁となった後、久留米藩の佐幕派が和泉ら尊皇派の処刑を上申。和泉は久留米での活動を諦め「退国願」を出す。文久3年5月に朝廷・長州藩・津和野藩の尽力もあって自由の身となり上京の途についた。



「有馬新七は気持ちのよい男やった」

真木和泉は長州・下関で久坂玄瑞と膝を交えて寺田屋騒動を語り始めた。有馬新七や田中謙助には和泉が薩摩入りした時から何度も会っており、薩摩武士らしい質実剛健で素朴な人柄に惚れ込んでいた。

「有馬は自分ごと刺させたそうですね」

久坂も惨状は聞き知っていた。有馬新七は自分の刀が折れたため、相手の鎮撫使・道島五郎兵衛を壁に押しつけながら同士の橋口吉之丞に「橋口!オイゴト刺せ!」と叫んで串刺しになったのである。

「あれは魂と魂のぶつかりあいよ。有馬たちは二階にいた俺たちに助けを求めることもなく、薩摩藩士同士で決着しようとしたっちゃろう」
「俺も二階の同士を騒ぎで死なせるわけにはいかない。暴走しないよう必死で抑えていたところに、奈良原(喜八郎)が階下から上ってきて思いとどまってくれと懇願したからなんとか収まった」

和泉は刀を捨て両肌を脱いで両膝をつき暴発組を説得する奈良原の姿を思い出した。

「それにしても島津久光はそこまで命ずるとはよほど公武合体への執念が強いのでしょうな」久坂の語気には憤りさえ感じられた。

「思えば、筑後の羽犬塚で大久保(一蔵)に面会した時から討幕の動きを警戒しちょった。薩摩入りしてから再び会ったときもそうじゃった」と和泉。

「薩摩では大変だったと聞きました」と久坂が気遣ったところ「ああ、西郷にも会えなかったよ」ため息交じりに答えた。

平野国臣が西郷吉之助と懇意なだけに、和泉は西郷に会えば何とかなるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。

「なにより人々の宴会ぜめには閉口したばい。来る日も来る日も酒や馳走を振る舞われて、無愛想にばかりもしておられないから飲み食いするが、こちらだって下手なことは話せない」そんな和泉の言葉を聞きながら久坂は薩摩のやり口に内心で舌を巻いた。

「骨抜きにしておいて、最後は小松帯刀が現れるという手はずよ。公武合体を目指しているからともに行動はできない。お帰り願えまいかという。ああも真っ直ぐに頭を下げられてはのう」

和泉が本音を吐き出すので、久坂は「小松帯刀。かなりの切れ者と聞きます」と応じながらその存在を脳裏に焼き付けた。久坂玄瑞が高杉晋作と並ぶ長州の秀才ならば、久坂よりおよそ5歳上の小松帯刀は後に「小松なくして明治維新なし」とまで評された人物である。

「ばってん、薩摩行きも辛いことばかりじゃあなかった」と和泉。四男の菊四郎も同行したからだ。「親子であげな長旅はしたことがないけん。途中でうどん屋によっちゃ一杯やって、薩摩での宴会ぜめはまいったけどくさ。帰りは漁師の舟に乗せてもらってナマコやタコを捕って肴に飲んだりして…」、「それは愉快ですな」嬉しそうに話す和泉を見ていると久坂も楽しくなってきた。

真木和泉守保臣、この頃には長州藩第13代藩主・毛利敬親に謁見している。久留米藩を出た和泉にとって長州藩はそれほど特別なものとなった。

第1話 神官、風雲を前に美人妻と長崎・小浜温泉を旅する

第3話 和泉、勝海舟に会い坂本龍馬を知る

第4話 禁門の変。そして選んだ道

第5話 久坂玄瑞の妻・文、真木和泉の妻・睦子はその後…



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画像は『写真AC「タイトル:京都伏見、寺田屋(作者:Monksさん)」』および『写真AC「タイトル:サムライ(作者:雅夢さん)」』より


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