短編 紙で折った天使は空に散る
お前の身体は、紙からできているんだろう。人間のふりなんかしたって意味ないよ、僕の目はごまかせない。春が来たらどうなるか、僕にはわかってるんだ。紙製のお前はこちらを振り返った拍子に、春風にその軽い身体を巻き上げられて、腰のあたりから真っ二つに折れ曲がってしまう。そしたらどうなる? だらしなく地面についたそのゆびさきは、水たまりから雨水を吸い上げる。そしてなす術もなく、見る見るうちに鏡の向こうの世界へとくずおれてしまうんだ。僕がお前を助けようとして、焦ってうっかり爪を立てようものなら、水を吸ったお前の繊維はぽろぽろと剥がれ落ちてしまうだろう。ちょうど、画用紙に水彩絵の具を塗り重ねすぎてしまったときのように、お前のかたちはどんどん崩壊していく。そうなればお手上げだ、僕はお前と桜吹雪との見分けがつかなくなってしまう。お前が飛ばされてゆくのをただ、ぼうっと見ているしかできなくなるだろう。抜けるような青空の下で、でくのぼうみたいに突っ立って。そんな想いに取り憑かれているんだ。だから僕は、春がやって来るのをほんの少しだけ恐れている。
拓美は今日も、「これまずいや」なんて言いながら、チェリー味の喉飴なんてシロモノを舐めている。僕に言わせれば、教室で食べればどんなものだって、粉っぽいチョークみたいな味になると相場がきまっている。だから僕は絶対に教室で弁当を広げないし、拓美の間食癖にも辟易している。呆れて頬杖を付く僕をじーっと見て、拓美は均一でムラのないベージュの唇を大きく釣り上げて笑う。
「あー、嘘。やっぱり美味しいかも。2個目からは美味しくなってきた。お前も食べなよ 」
「いらない」
「えー、なんで? 」
「そんなの食べても意味ないだろ」
僕は飴なんて嫌いだ。食べても意味がないんだ、ただ唾液に味をつけているだけなんだもの。まるで拓美の生き方みたいで、気色悪い。
「そうかなぁ」
拓美は、こちらが何を言っても「そうかなぁ」と歯を出して笑う。こいつに構ったって甲斐がない、のれんに腕押しだ。それでも僕は、ことあるごとになにかにつけて文句を言う。そしてこいつの、予想通り無責任な「そうかなぁ」を聴く。そのたびに、思いきり顔をしかめるのだ。
拓美は、長いセーターの裾からはみ出す白い指で、頬の上から飴の形をなぞりつつ校庭を眺めている。こうして何事か思案しているときのこいつは息を潜めた草食動物のようで、不思議にどこか牧歌的だ。拓美は不意に、振り向いて僕に意味ありげな目配せをした。そしていたずらっぽく目を細めてから、演技がかった大きな身振りで、カーテンの陰に隠れた。
また始まった。うんざりだ。僕は思い切り顔をしかめた。淡い黄色のカーテンからほのかに香る、いつもの甘ったるい香り。よほど無視しようかと思ったが、どうしても癪に障った。思い腰を上げて、教室の後方にある黒板から黒板消しを2つ拝借し、カーテンをめくる。僕を見てにやにやしている拓美の真横に並び、大きく窓を開け放す。がらり、と乾いた音が寒空に響く。僕は白く汚れた黒板消し同士をこすり合わせ、親の仇みたいにぼん、ぼんと力の限りはたく。白い煙が冬の冷たい空気に乗って、渦を巻く。拓美は何が面白いのだろう、石灰の粉に噎せながらくつくつと無邪気に肩を震わせて笑う。コンパクト・ミラーと口紅をそれぞれの手に持って、「やめろよはみ出すだろ、」と楽しそうだ。
拓美は休み時間ごとに、クラスメートの目を盗んでは、ごく淡いベージュの口紅を塗り直しているのだ。
しかもクラスの女子が使っているあの「色付きリップ」といった可愛らしいものではない。日本刀のように黒々と光るパッケージの、本物の「口紅」だ。なんでも百貨店に行って、わざわざ自分のもとの唇の色とぴったり合うものを、店員のお姉さんに選んでもらったんだとさ。
僕は基本的に、拓美のやることなすこと全てにうんざりしている。
「悪趣味だな」
「でも秘密を作るのって、楽しいよ」
「その楽しさって、ただの自己満足だろ。なんにも意味ないよ」
拓美は自己満足的で、自己欺瞞的だ。意味のない、チェリー味の喉飴とか口紅とかそういうガラクタで構成された自分だけの世界に酔っている。
「そうかなぁ」
拓美はずうっとヘラヘラしている。僕がどんなに言葉を尽くしたところで、こいつに響くことはないのだろう。
「あのなあ、気を付けろよ、拓美」
パチン、とコンパクト・ミラーを閉じて振返った拓美の唇には、僅かに艶が足されていた。僕は何も見なかったふりを決め込んで、空に消えた白煙を探す。拓美は何事もなかったかのようにカーテンをめくり、さりげなく周囲を見渡して、嘘の大あくびをしながら教室の中に戻って行った。そうして華奢なゆびさきで口を覆う仕草は、作り込まれた唇によく似合った。それもそのはず、こいつのまあるく整えられた爪には、透明なマニキュアが塗られている。2、3日にいっぺん、塗り直しているらしい。悪趣味だ。
こいつは口紅を塗り直すのと同じくらいの頻度で、きらきら光る爪をうっとり眺めては、僕に目配せをする。髪の毛も一見すると黒のようだが、夕陽を浴びないと分からない程度に、僅かに明るく染めている。こいつは夕方になると、毎晩丁寧に手入れしたその髪がオレンジ色の光に透けるのを、僕に見せつけては無邪気に笑うのだ。なんて悪趣味なやつ。
秘密を抱えすぎたこの少年の姿は、幽霊のようにゆらりと窓ガラスに映り込み、外の抜けるような青空と混じり合ってひとつになる。こんなとき僕は、拓美の「本当の姿」を見てしまった気がして、ぎくりとする。僕と一緒にこの土臭い地上を這っているのはただの見せかけで、本当は天空にあるやんごとなきお城にでも住んでいると言われた方がしっくりくる。そんなことをうっかり考えてしまっても、僕は死んでも口に出さないけどな。
そう、余計なことは口に出すべきではないんだ。これは対照的な僕らが、シェアしている価値観のひとつだ。この信念に基づき、拓美と僕はクラスのカーストを巧みにくぐり抜けて、僕ら自身のやり方で植物のように揺れている。
ご覧の通り僕は、ほとんど趣味みたいに世の中の全ての事象に不満を抱いているタイプだ。正直に言って、クラスでも浮いている。一方の拓美は、誰にでも公平で人当たりがよく、誰からも好かれる優等生だ。
しかし、僕の目はごまかせない。彼は単に、誰に対しても興味を持てないだけなのだ。僕だけは、それをよく理解している——ある意味、僕らはお互いの理解者なんだと思う。僕らは誰とも交わることができない。拓美もそのことをよくわかっているので、僕をそばに置く。それ以外に方法がなかっただけだ。僕もまた、文句を言いながらもこいつをそばで理解し続けるしか方法がなかった。僕らの物語はここで終わっていて、続きは存在しない。
僕らはずっと、僕らの物語の淡いブルーの終着駅に、並んで立ち尽くしている。ここには雲ひとつない空が広がり、空気は甘く冷たいが、がらりとした喪失感が立ち込めている。僕らふたりの他には誰もいないのだ。忘れ去られた無人駅の前方には、見渡す限り空き地が広がっている。雑草は伸び放題で、線路ですらとうの昔に朽ちて死んでしまった。永遠のようにループする春をふたりきりでただ眺めている。
僕は生まれてから、もう14回も春を経験した。春が来るとリセットボタンを押したみたいに、人や動物が色めき立つ。冬の厳しさを忘れてしまったかのように。馬鹿みたいな無限ループ。馬鹿みたいな無限ループを側から眺めている気になっている、馬鹿みたいな僕らふたり組。僕らはループから抜け出してなんかいない、ただ無力感に負けて成長する気がなくなってしまっただけなんだ。こんな場所には、チェリー味の喉飴ぐらいしか娯楽がないのは、認めるしかないだろうな。だからといって、ここはそんなに寂しい場所というわけでもないんだ。世の中には、こういう静かで穏やかな駅舎も存在するという、ただそれだけのことなんだよ。
そんな僕らの秘密基地は、学校の放送室だ。僕らはここを、合法的に私物化することに成功していた。1年次からふたり揃って放送委員会に所属して、従順に仕事をこなしていった。そして2年生の秋が来て、計画通り実権を握った。その途端、僕らは委員会活動を大幅に縮小し、委員会を静かにひっくり返した。
その厚い人望により2年の9月から放送委員長となった拓美は、後輩たちの前でこのようなご立派な演説をしてみせた。
「まず、これはいかがなものかと思うんだよね。『他の委員会と協力しましょう』……放送委員会が? せいぜい、環境委員会が考えた美化運動の宣伝を、校内放送で話すくらいしかできないよね。これって正直、みんな聴いているのかな? 君たちも聴いてないよね、でしょ。廊下に花壇の絵が入った綺麗なポスターが貼ってあるじゃん、ね、あれ綺麗だよね、あれで十分じゃないかって、思うよね。よく考えてみてよ。ひとつでも退屈な放送を流したら、みんな放送を真面目に聞かなくなって、大事な連絡を聴き逃しちゃうようになると思うんだよね。もし緊急放送を聴き逃されたら、それって放送委員会の責任になるだろうね。いや、責任を感じるべきなんだ……。うん、そうだよね。賛成してくれてありがとう。でさ、だったら毎日の台本も、長ったらしい文句をなくしてシンプルにした方が、みんな聴くようになると思わない? よし決まりだね。では、この『前年度の反省を活かしましょう』ってのはどうかな。反省っていっても、原稿読んでるだけなんだし、アナウンサーでもない僕らが原稿の読み方を反省するなんて思考停止だよね。だったら……。」
そう、拓美はいっぱしの詭弁家だ。でも温和な様子でさらりと委員会の形骸化を指摘し、改革を進めていく委員長の姿は、後輩の目にはさぞ頼もしく映ったことだろう。拓美は自身の演説に酔い、高揚するあまり何度も唇を舐めて、ベージュの口紅の端が少しだけ剥がれていた。そのころ副委員長になっていた僕は、隣でそれを一瞥してため息をついた。化けの皮、剥がれてんぞ。見ていられたもんじゃなくて、深みを増してゆく銀杏の葉に視線を移した。そして、季節はまた廻り、14回目の冬がやってきたって訳だ。
僕が放送原稿——昨年度の2分の1にまで短縮したものだ——を読み終えると、拓美はすぐに帰り支度を始めた。まだ3月なので、照明を落とすとまだ薄暗くて、パチンと蛍光灯を消した途端に体感温度が下がるような錯覚に陥る。拓美の方を見ると、すで首にマフラーを巻き終えて、手には何やら紙袋を下げていた。
「今日も逃げ支度が早いなあ」
僕は嫌味を言いながらカーテンに手をかけ、はっと目を見張った。張りのある黄色い布地の端の方から、どんどん朱色に染まってくる。僕は夕焼けが苦手だ。陽が沈むまでの短い間、心はがらん、と音を立てるのに、学校や街はしん、と沈黙する。それが不気味でたまらない。
「いいから、帰ろうよ。ほら、早く出て出て! 」
手に持った紙袋をごとごと言わせながら、拓美が僕を追い出してドアの戸締りをする。ふと、その手元に視線を落として、僕は息を呑んだ。拓美の手の中にある鍵が、アイスのようにどろどろに溶けている——かのように見えた。しかしそれが鍵穴から引き抜かれたときにはもう、いつもの直線的なフォルムを取り戻していた。僕は目をこする。幻覚でも見ていたんだろうか。ほら、だから夕焼けは危険なんだ。
拓美は僕に気色悪い目配せをしてから、誰もいない廊下で堂々と口紅を塗り直す。廊下の窓に映り込む自分の像に向かって笑いかけながら。僕は思い切り顔をしかめ、放送室のドアの小窓から、何気無く部屋の中を振り返った。そして、黒いマイクが夕陽を浴びて、輪郭が黄金に溶け出しているのを目撃した。
もう冬が終わる。突然、漠然とした恐怖が僕の後頭部を殴った。心が、がらん、がらん、と鳴る。やめてくれ。全身の血管を、膨れ上がった焦燥感が駆け巡ってゆく。僕は咄嗟に——いったいなんでそんなことをしたんだろう? あとから考えてもわからないけど、たぶん自分ひとりだけがここに置いて行かれそうな気がして——、廊下にぼんやりと伸びる拓美の長い影を踏んだ。不自然な靴音が響く。拓美がこちらを振り返る。口元には無邪気な笑みを浮かべているが、目は違和感を感じとってほんの少しこわばっている。僕は得体の知れない不安で吐きそうだった。廊下の照明はすでに落ちていて、拓美の痩せた頬に不気味なほど濃い陰影を付けている。何も言わないで欲しかった。でも拓美は影を膨らませるように笑って、ぽつりと言った。
「実は俺はね、天使なんだよ」
「嘘つけ」
僕が反射的に否定するのを聞くと、ベージュの唇の端がどんどん嬉しそうに釣り上がる。まるで陽が高くなり朝靄が晴れてゆくように、彼の目には平常の怠惰な輝きが戻った。
「そうかなぁ」
拓美は絶対にはっきり物を言わない。
「拓美、嘘ばっかりつくなってば。いつも言ってるだろ」
放送室の小窓から強烈な西陽が指している。拓美の僅かに明るい髪の毛が陽に照らされ、黄金に千切れて埃と一緒に空気中を浮遊している。拓美と周りの空気が溶け合って、全てがひとつになってしまっている。今日みたいな陽はいつにも増して危険だ。もしいまの時刻に僕らが陽を遮る物のない屋外にいたとしたら、こいつは為す術もなく全身を黄金に溶かしていたことだろう。そしたらきっと、僕の目には拓美が本物の天使のように見えるだろう。しかし拓美の目から見れば、僕の方がよっぽど天使のように見えて仰天するのだ。
そうだ、拓美もたまには少しくらい驚いてみればいいんだ。そしてたまには「嘘だよ、ごめん」と謝ってみればいいんだ。「僕が天使だなんて嘘だよ」って、ただ一言、たった一言、笑って否定してくれればいいのに。
「ははは。じゃあ俺、鍵返してくるね」
こいつがそう言って向こうを向いた瞬間を狙い、僕は自分の髪の毛を2本むしり取り——なんだってこんなことをしたんだろう? ——、拓美のマフラーの隙間に滑り込ませた。几帳面に折って首に巻き付けられた、格子柄の上品なマフラーの間に。僕はまるで自分以外の誰かに操られていたかのように迷いなく、これらの行為を2秒もかからないうちにやってのけた。すぐに我に返り、自分のしたことにぞっとした。側頭部の一部が、針を刺したように痛んだ。
「……だから、気を付けろよっていつも言ってるのに」
彼が職員室の方に歩いて行ったのを確認して、口の中でそう呟いてみる。夕陽はいつの間にかものすごいスピードで西へと去っていった。廊下はしっとりとした闇に包まれている。僕はなんだかどっと疲れて、廊下の壁にぐったりともたれた。
程なくして戻ってきた拓美は、いつも通り黒髪に黒い瞳をしていて、身体にも髪にもしっかりと輪郭線を持っていた。僕は世界に適切な質量が戻ってきたことに、深く安堵した。大丈夫、もう感傷が膨れ上がって、バランスを欠いてしまうこともないだろう。
「あ、今日の夜、マニキュア塗り直しちゃお」
拓美は自身の爪を見たはずみで、力が緩んだのか、反対の手に持っていた紙袋を床に取り落としてしまった。
がしゃーーーーーーーーーーーーーーーん。
大量の金属同士がぶつかり合うような派手な音が、誰もいない廊下にびりびりと反響した。それは、目の前にある小さな紙袋からは到底想像し得ないほどの、凄まじい大音量だった。長い廊下全体が、この無視しようがない巨大な違和感の中に、すっぽりと包まれた。拓美は「いっけね、」と口走り、そんな風に焦った自分自身に対して戸惑うようにして、口をつぐんだ。
拓美がこんな顔をするのを見るのは、これが初めてのことだった。その血の気のない顔を見つめていると、背中に何かが這い上がってくるのを感じた。僕は恐怖のあまり嫌味を言うことも、顔をしかめることもできなかった。拓美の方も、貝のように押し黙ってしまい、表情を変えることはなかった。まるでひとりきりで、静止画の中に入ってしまったみたいだった。
僕たちふたりは競うようにして、ただただ、なるべく早く昇降口まで歩いた。無言のままで。側から見たら、ほとんど並んで走っているみたいに見えるであろう速さで。僕は駅前に用事があるのだと嘘をつき、校門の前で早々に彼と別れた。僕は、拓美から逃げたのだ。
ピーコック・ブルーのペンキが粉を吹く、古びた歩道橋を震えながら走る。走っているから寒くなんかないはずなのに、手の震えが止まらなかった。こんな日には、街灯がうるさすぎる。薄暗くて、汚くて、卑怯で臆病者の僕を、屈託ない人工の光の中に沈めないでくれ。お願いだ。明るさにむせ返ってしまいそうなんだ。
走りながら泣いた。そうだ、きっと拓美は本当に天使なんだ。あれは嘘なんかじゃなかった。いや嘘だ、そんな馬鹿な話があるか。でも泣いているのは、あいつが天使だと信じている証拠なんじゃないのか? 剥がれたペンキが、昨夜の雨のせいでほんの少しだけツンとした匂いを放っていた。僕は水たまりで転んで、泣いた。自動車の排気音も外灯も街の色彩も全てがうるさすぎて、そのおかげでそのとき僕が泣いていたのを知っていたのは僕だけだった。
その夜はうまく寝付けなかった。布団の中に入って後は寝るだけだからじっとしているだけなのに、まるで何者かによって力を奪われたせいで動けないかのような気がした。もう手も脚も、瞳や耳、脳味噌も、何ひとつ自分の思惑通りには動いてくれないのだと、そのときはなぜか確信していた。試しに布団の中で左手の指を1本ずつ折ってみたが、まるでかじかんでいるかのように鈍かった。寒いから実際にかじかんでいるのかもしれない。わからない。目を閉じていても、いつの間にか眉根を寄せて瞼の裏を凝視している。そこに勝手に浮かび上がったり消えたりしているのは、静物画の中に入ってしまった拓美のイメージだった。
例えばお前が天使だったとして、
はっと我に返る。机の上のデジタル時計は午前3時を告げて光っていた。眠ってしまっていたのだろうか。そういう思いが浮かんで、このとき僕は眠れないのではなく、眠るのが怖いのだと理解した。
……そうだ、例えば拓美が天使だったとして。あいつは自分から何かを成し遂げようという気がさらさらないような、困った惰性な男だから、きっと段取りもよく考えずに羽を広げるだろう。僕に得意げに目配せして、僕だけに羽を見せつける。でもそこに春一番がやってきて、あいつは受け身を取れずに呆気なく桜吹雪に飲み込まれてしまうだろう。自分自身の舵が取れないとわかって、本当にもう手遅れだと気付いてから「いっけね、」と笑うのをやめる。昨夜の雨でそこに水溜りがあるんだよ、腰のあたりから真っ二つに折れ曲がってお前はゆびさきから雨水を吸い上げるんだ。お前は紙で折った天使だから。そしてなす術もなく、見る見るうちに鏡の向こうの世界へとくずおれてしまうんだ。
僕がお前を助けようとして、焦ってうっかり爪を立てようものなら、水を吸ったお前の繊維はぽろぽろと剥がれ落ちてしまうだろう。ぼろぼろに千切れたお前はそのまま、砂場の砂と桜の花びらとに混じって見分けがつかなくなってしまう。僕は僕がこの砂場からお前のかけらを拾い集めない限り、お前がひと匙の灰も残さずに消えたのと同義だということを悟り、口の中に脱脂綿を詰められたみたいに苦しくなる。そして、そこから逃げ出して思いきり走るんだ。
そうなったら僕は、たったひとりで、あのふざけたチェリー味の喉飴の残りを持て余して、公園のゴミ箱の中に全部ひっくり返して捨てるのだろうか。
世の中の人たちが夜桜を楽しむレジャーシートとレジャーシートの間を縫うようにひた走り、ピーコック・ブルーのペンキがはげた歩道橋の上で、力尽きて泣くのだろうか。
濃紺の夜空を舞う桜の花びらも、愉快な提灯の明かりも、春の麗かな陽気さえも疎ましくなって、僕は世界の全てを恨みながら、暮らしていくのだろうか。
僕がこんな心配をしている今頃、あいつはきっと呑気に透明なマニキュアを塗り直しているんだろう。僕が何度「意味ないだろ、」と言っても、何日か経って剥がれてきたらまた塗るのだろう。消えてしまうその日まで、顔の隅々まで平気なふりをして。僕と一緒に、永遠にループするかのような素振りをして。なんて悪趣味なやつなんだろう。
夢を見ていたのか、ただ考えていただけなのか皆目わからない——わかりたくない——けれど、気がつくと夜が明けていた。微熱に浮かされるような怠さを押し込めて、やっとのことで布団から這い出て学校へ向かう。やけに霧が濃い、冷える朝だった。拓美といつも通りに話すことはできない気がしていたのに、あいつはよりにもよって昇降口の前で、僕が来るのを待っていた。昨日と同じように浮かない顔をして、下駄箱に背をもたれている。僕の姿に気がつくと、開口一番、
「おはよう。あのさ、昨日のあれ。俺の持ってた、紙袋の中身なんだけど……」
と気まずそうに切り出した。
「……ああ、おはよう」
僕は何事もなかったように靴を脱ぎ、かかとを揃えながらも、込み上げる吐き気を必死で堪えていた。恐る恐る、拓美の目を見る。いつも通りの、怠惰な輝きが宿っていて少し安堵した。
「誰にも秘密にするつもりだったのに、俺ったらさ……」
……こいつは何を言っているんだ? 正気か? なぜ、嘘をつき通さないんだ。なぜ、僕を欺くことを突然、やめてしまうんだ。もう行ってしまうからなのか。まずい、声が出ない。上履きに向かって伸ばした手が、言うことを聴かない。今朝もきちんと手袋をはめてきたから、かじかんでなんかいないはずなのに。
お前が、もし天使だったとして。
僕の涙で滲んだお前の身体は、ぽろぽろと千切れる。透明なマニキュアなんて、ほとんど意味がないのに。紙の身体だから、神の身体だから、だから口紅で、マニキュアで、補強していたんだろう。きっとそうなんだろう。
僕はお前を捕まえようと焦ってその影を踏む、でも影までもが薄い紙でできていて、端から破れていって桜吹雪にさらわれてしまう。水を吸って粉々に破けたお前が、桜吹雪そのものと一緒くたになってしまうんだ。そしてカラカラと笑い声のような乾いた音を立てながら春風に巻き上げられ、お前は永遠に行ってしまう。そうなる日が決して来ないように僕はお前の影を踏んで歩こう、ベージュの口紅だって塗ってあげる、透明なマニキュアも塗ってあげよう。でもどれもこれも時間稼ぎの気休めで、ほとんど意味なんかないんだ。せめてもの餞別に、僕の髪の毛を持たせたけど、お前にとってそんなのあってもなくても変わらないよな。お前にとって、僕がいてもいなくても変わらないのと同じように。僕がいたってなんの意味もないんだ。僕はいつもこいつに、自分に言い聞かせてきたのに、まだわからないのだろうか。
お前が消える瞬間になって、ようやく僕は口がきけるようになって、本当に天使だったのかと訊くだろう。お前はどうせ「そうかなぁ、」なんて最後の最後までお茶を濁すんだろう。お願いだ、俺が天使だなんて嘘だって笑えよ、そしたらあのふざけた喉飴をひとつくらい、もらってやったって……。
「あの中身さぁ、全部、店で使うスプーンだったんだよね。お前のことまだ呼んだことなかったけどさ、俺の家、喫茶店やってて。だってよく来る常連さんが、俺のこと女みたいだからって『天使が帰ってきた』なんて言うんだよ。お前は馬鹿にするかなって思ったら、恥ずかしくなってさぁ。でもまあ、今度遊びにくればいいじゃん。お前、親友なんだし。隠すこともなかったよなぁ」
僕は阿呆らしくてため息をついた。こいつは、何かを成し遂げるようなつもりがさらさらないような、ふざけた男なのだ。だから万が一こいつが天使だったとしても、羽を広げることすら億劫がるだろう。他の天使が大空に羽ばたこうとしていても、大層な夢だなと鼻で笑うのだろう。そして、のらりくらりと人間のふりを続けるのだ。この先ずっと、何度も訪れる春をループして。
僕はこの日初めて、拓美の誘いを断らずに、チェリー味の喉飴を舐めてみることにした。口に入れた途端、チョークのような粉っぽい味がして、すぐに口から出して教室のゴミ箱に捨てた。
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