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きくことは、自分の器にうけいれること、かもしれない。

音楽を描く個人ワークでの出来事

2017年に音楽を描く(utena drawing )を使った音楽体験を継続してやってこられた方とのやりとりをここに紹介します。

これは、描く事自体が主体なのではなくて、描いていく体験のほう、あるいはそこで変化していく音楽のほうに目的があり、そこでの動線(utena drawing )はいわば、言葉か非言語コミュニケーションのツール、という位置づけになります。また、これは楽器のように一生やっていくものというより、多くの人は一過性のものでよいのかもしれない、と私は最近思うようになってきました。でも、これに出会ったか出会わなかったか、ということで、音楽との関係が変わってくるということもあり得る、そういうものなんだと感じています。

この方は、最初少しお教えしたあと、何冊もスケッチブックに音楽を聞きながら描き続け、聞こえてくる音と実際に歌う音のズレがあったのが、このドローイングでなくなってきた、とおっしゃっていました。その後のことになります。


やりとりというか、そのときに私が感じたこと、ですね。
では、どうぞ。

きかないのではなく、それをまだしらない

やっと自分の音楽の支えを見つけ、自分の感覚で音楽を掴むことに馴染んできたTさんのそのときの動線。

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少し前くらいから、グループのときも個人のときも私(谷中)が意識し始めていたのは、その自分を見失うことなく、周りの音を受け入れていく、ということでした。


もちろんそれは、最初っからできるにこしたことはない。
よく指導する側はかんたんに

「もっとききなさい。」「まわりのおとにあわせなさい。」

というけれども、実際にはそれは難しいから、閉じているという話で、そのやるせない平行線をどうやって超えていけばいいのか、ということは、ずっと私にとってもテーマでした。

そう言う指導者側もどうなんやろうな、と正直思います。

というのが、音楽というのは、人と共有したときに何倍にも膨れ上がる奥行きがあって、それを知っているから、それを先生は体験してほしいと思う・・でも、往々にして、先生が思っているほど、それは簡単ではないのです。


言えばできる、注意されれば治るというものではない。

リズムに乗って合わせるとかいうのは「リズム」に乗っているのであって、他者の響きと共鳴しているわけではなく、そのあたり、その差異は厳密と私はとらえています。セッションをしていて、リズム的にはあっているけれども響き合わないということだって、よくあることです。


具体的に、人の音が自分の中に流れ込んできて、そして、それは自分の体感を奪うものではなく、一緒にランデブーしていけばいいもの、と認められる・・・そういうあり方は、お互いがお互いの呼吸の理解の度合いの深さがなければできないことで、ここに「聴き方」という感覚的な問題、何を聞いているか、という問題がが関わってきます。

そう、存在のあり方ではなく、これは感覚の問題だと私は気がついてきました。このutena drawing が気づかせてくれてきたことです。


お互いにききあえない、というのは悲しいことです。
でも、聞こうとすると自分を見失うのであれば、それはアイデンティティの危機。そこでシャットアウトしていくこともまた必然であると思います。

ここでの、きく、というのは器としての自分があり、受け入れる、ということでもあるのかもしれません。

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さて、ドローイングを重ねてきて、しっかりと自分の音楽の筋道を追うことができるようになったTさん。

今回のワークではじっくり自分で自分の音楽を構築したあとに


前回のワークでは
「伴奏がうるさい(から自分に集中できない)」
と感想を述べられていた、その伴奏のパートをドローイングした後、Tさんの演奏に私が伴奏してみることにしました。

そのとき、なぜかわからないけれど、涙が出た。
と仰った。
ええ。


それ。伴奏をしていた私も確かに、あなたがきいているのを感じていました。
共に音楽をするということ。
一歩先へ進んだ気がしました。


2017.7.29の記事

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!