溝の落ちていく先
出かけようとしたら、車のフロントガラスは氷の花。
お湯をかけて、これを溶かして出発。
今回の実家の敷地滞在時間は2時間ほどなので、地味に草を抜いたり、杉のところの蔦をはいだりしました。
さて、前回もと田んぼ地の脇に掘った溝を最後の角で止めてあった石を抜いたことを書きましたが
その先は杉の小さな林になっていて、ここへ無造作に落ち込んでいくのもどんなもんか、と、あれから気になっていたので見に行きました。
上が前回抜いた水路
その先。枯れ葉に覆われて見えないけれど、石を組み上げていて、水が落ちるようにできたみたい。
そして、これがその下の段にあるところ。林、と言えるほど大きな土地でもない。
この一段下がった暗い土地は、ちょっとナウシカの腐海を思い出したりします。
秋にはまだ葛の葉が上を覆ってしまっていて、鬱蒼と薄暗い場所でしたが、自然に生えて来た雑木は残しつつ、少しずつ葛も引っ張っては 剥がしていたのでした。今日行ってみると少し空気が変わっていました。雪解け水もここへ落ちていったはずで、ここの生態系も変わってくるのかな。というか、もとに戻るのか。
この下は坂道の道路になっていて、この土地も傾斜があるからそこへ落ちてくか。
夏にまた鬱蒼としてしまうと、葛の新芽を切りに来られなくなるので、人を拒まない程度には手入れをしておきたい。
枯れ枝が、たくさん落ちていて、歩きにくいので集めてきた。
昔の人は、こういうのを焚き付けに使っていたのだろうなあ。
使いみちないから、このまま。なんか、もったいない気がします。
これから、これらの土地をどうするのか、とか、なにか方策があるわけではないのです。なんとなく、そこにあるから、対話してみてる。
私は、音楽の仕事があるから、本腰をいれてここを手入れするつもりもない。
でも、ただ、ここが荒れていくのは残念だと思います。
もし、有効に活用してくださる人がいればよいのだけど、と思うけれども、よその人が入るのを母を好ましく思わないから、まあこうやってなでてる感じです。私なにもできないけど、よしよしだけしとく。少し人の手が入ると、たしかに空気が変わる。
ま、なにより、子供の時のように、誰もいないこの場所で時間を過ごしているのが楽しいです。こないだは田んぼのところでカッチンドメを拾いました。きっと私のか姉のか・・
コロナ禍の、今です。
こんな広々したところですごしている自分が恵まれているのだということはわかっているつもりです。この土地をどうこうする、ということより私の中にあるのは、自分が掘り出してきた「音楽プロセス体験」という道を水がちゃんと通る形にしていくこと。せめて、この時代に意味のあるものとして生み出したい。
ずーっとそのことを考えているのだけれど、煮詰まってきたくらいにこうやってここに立ってみる。全部忘れて遊ぶ。そして帰り道で考えが動いたりします。
なにか、必要なプロセスなんだろう、と。
ものごとはきっと、動かすもんじゃなくて、動いてくもんだ。
ひだまりでヤブツバキが少しずつ咲き始めていました。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!