うてま4

教えるではなく、伝わる、を目指して。

音楽教室、の「教室」というのにどうも馴染めないから、屋号から「教室」というのを取っ払って、でも、「街のおとや」であることはわかるようにしとかないといけないから、代わりにmusic fieldをいうのを、つけた。英語は苦手だから、正直これもこそばゆいけれど、教室より、自分としてはずいぶん気が楽になった。それでやっていこうとしたのだけど、なにさま田舎なご自宅の一室、やっぱりほどほどな「教室」というほうが人様には馴染みよく、子どもを教える一部は今も「教室」と呼ぶ。気持ちだけは、狭い部屋をでて music fieldな空間で羽ばたいているつもりでいる。まあ、この中途半端さが自分か。

教室、だけではなくて、「先生」も苦手、なんなんだかな、と思う。

ただ、音楽を教えることに関しては、自分はほんとに好きです。すきなのに、教えるっていうことは先生と同じように違和感もある。

音楽大学を出て、大手の音楽教室には馴染めず、数年でやめた。その頃は、教えることは負担でしかなかった、あれは、なんでかというと、何を教えていいんだかわからなかった、自分に教える中身もそのノウハウもなかったからだったんだなって今は思う。自信のなさもあった。嫌々ながらこれしかできない自分なので、続けるうちに、なんだかそれなりに積み上がってきて、今はほんとに、楽しいと思う。子どもにしても、大人でも、関わっているうちになにか変わっていく。共有できなかったものが徐々に伝わり始める。そして、その人のものになっていく。時間が経ってくると、生徒も卒業しおとなになり、そこここで音楽を続けているという話を聞く。そういうのを聞くと嬉しいもんだ。もちろん、挫折もあるし、うまく行かず途中でさよならした人もいる。でもだからこそ、そこでなにがいかんかったとくよくよ考え詰めるたちで、それで、私はますます教えることに夢中になってく。尊敬する大村はま先生のようになりたいと思う。結局テキストも自分で手作りしてる。

それでも、そう、こうやって「教える」と書いていても、やっぱりある私の中の違和感。

どうも、少なくとも、自分の役目は「教えること」ではない気がするんだな。
うすうす、そう思っていたけれど、今日ちゃんと言葉が降りてきて腑に落ちた。

それが、この記事の題のところに書いてみた
「教えるじゃなくて、伝わる」ことをやりたい、ということだった。伝える、でもなくて「 伝わる」ということ。

私が磨きたいのは、教え方ではなくて、伝え方。伝わる伝え方。そして、それよりもっと大事なのは、その伝える中身が何かということ。それがすっ飛んでやれ教え方がどうとか、言えない気がする。とにかくずっとそれを追っかけてきた。中身、つまり音楽って何かということ。
そしてその中身の性質、芸術というか遊びというか、それが大切だからこそ、なにか一方的に教える、ということに違和感があったのだな。

音楽はなにか、という答えのない問いを、追い続けなきゃいけないし、それが、私はとっても楽しい。

そして、伝わるということには、相互性がいる。
私も相手を知らなければならない。
自分も相手とともに成長する。いつも一方的になることはない。

伝わったとき、そこにちゃんと生まれてくる。
それが 音楽の本質的なもの、だと感じる。

ドレミだけを教えても伝えられないし、音感だけを引っ張り上げても伝えられない。もちろん、それらも音楽を伝えるツールとしては大事だけれども、それは主体ではない。ピアノがスラスラ弾けるようになっても伝わらないことがある。

音楽をその人の手元に届けること。その人の中で息づくこと。
ちゃんとその人の中で心と身体が釣り合って、音楽が息づいていくようなこと。

こんなだから、時には、生徒の保護者さんに愛想つかされることも。ただ、この頃は、ホームページに自分の姿勢を書いていることが良かったのか、相互理解のもとレッスンができるようになってきていて気長に「伝わる」事に取り組めるようになって来ている。関わる皆さんにはほんと感謝してる、ありがたい。そして、ここまで自分の違和感を手放さなくてよかったなと思っている。


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音楽前夜(谷中みか)
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!