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エッセイ「幼稚園の参観日にクタクタになった理由」

今日は3歳の息子が通っている幼稚園の参観日だった。

たった30分の年少クラス見学だが、とても貴重な体験だった。子供の一挙手一投足とわたしの中で湧きあがってきた感動を忘れないように書いておく。

まず、そろりそろりと静かにクラスの外まで行き、園児達に気づかれないように中を覗いてみた。わたしが来たことが息子にバレる前に、先生と息子が対峙している様子が見たい。またコロナで今後の参観日無くなりました、なんて言われる日が来るかもしれない。園内の様子を動画で見れる訳もなく(園児達のプライバシーを守る為に難しい)先生と園児のみの空間を感じられるのは、参観日ど頭の数十秒だけなんじゃなかろうか。と考えると、もう絶対に見たい。見たい気持ちが、犯罪者ばりの生唾ゴクンを体験させてくれた。息を呑むとはこのことだ。

クラスの扉は入口側と園庭側にあって両方から覗いていいことなっている。どちらも扉は開け放たれていて、いつでも園児が飛び出せる、のびのびした教育環境なのがわかる。先生は優しい口調で音は高く聞き取りやすい声だ。これが子供を集中させる声なのだろう。開け放たれた教室なのに、クラスの園児全員が担任の先生に注目していた。小さな背中がたくさん見えた。先生が模造紙に実際より10倍ほど大きく描かれた手の指に猫の顔をつけて見せ、歌いながら手遊びをしていた。そしてそれを正座して見ている息子の背中を発見。すごく姿勢がいい。

だけど何故、正座!?

最近、お山座り(体操座り)を覚えたと嬉しそうに言っていたので、先生の話を聞くときはお山座りをしているのかと思った。家で正座をしているのはあまり見なかったので、とても新鮮な光景だった。その光景はわたしの頭に息子の気持ちを察する機能をピカン!と発動させた。息子の気持ちを察する能力は、今のところ全世界で1番あると自負している。勿論、気持ちの全てはわからない。けれど喋れない頃から、息子の欲求を感じ取るよう努力してきた。だから今のところは、だ。いつか、わたしより理解する人が現れてパートナーになったりするんだろうか。ひとりで生き抜くタイプなのか。仕事が1番なのか、家族が1番なのか、多趣味なのか、どうなのか。どんな選択をしても、人生を楽しんでほしい。これが親の願いだ。

話を戻そう。一瞬で、わたしなりに正座の理由を分析した。集団の中で1番後ろの列に居たので、先生の手遊びをしっかり見る為に高さを出したかったんじゃないか。そこで立つという選択肢もあるだろうに、座ろうねと先生から言われたから忠実に守っているのだ。息子は結構、空気を読むので集団に合わせるタイプだ。ルールの中で、楽しみ尽くそうと正座しているんだ!わたしと離れていても、自分が楽しいことをちゃんと掴み取って生活しているんだ!という思考に至り、現実にある小さな背中を目にして、涙が溢れた。

言葉通り、溢れてしまった。

このタイミングで涙している親御さんは他に居ない。マスクもしているし、眼鏡をかけてる方が多い印象だったので、わたしが気づいていないだけで泣いている人は居たかもしれない。もし居たなら、その人とママ友になりたい。話が合いそうだ。

話を戻そう。はっと気づくと園児達が無視できないほどに親達がドアの外に集まっていた。わたしの妄想が入り長く感じたが、まだクラスを見始めて1分くらいだ。先生からの声掛けがあり、ぞろぞろと親達が教室に入っていく。わたしもその流れの先頭で1番よいポジションを狙っていた。しかし、どこがよいポジションなのか、ぶっちゃけわからなかった。全てが初めてで、さっきの感動の小さな背中の残像も残っているわたしの脳みそは、至当な判断をしてくれなかった。人に押されるがままに教室の真ん中の辺りのロッカー前に張り付いた。それでも、息子がわたしを気にならないといいなぁと思っていた。これは本当に甘かった。息子のママへの愛を舐めていた。。

息子がわたしに気付くと「(驚きの顔)!!マ〜マ〜♡(ありえないほどの喜びのとろけ顔)」と最高のリアクション顔芸と甘ったれた声を浴びせてきた。参観日のお知らせの手紙に注意事項があり、子供に手を振らないでくださいと書いてあった。しかし、あんな顔芸と声をマスクしているわたしが目の表情だけでお返しするのは無理すぎる。0.3秒ほど我慢はしたが、すぐにルールを破り、わたしの人生史上極小規模で手を振った。この時点で、息子はルールを守り、わたしはルールが守れていない。息子のことを、心から尊敬している。

触れる距離に来たら何の躊躇もなく抱きついてきた。わたしも思い切り抱きしめ返したかった。朝のお見送りをしてから、もう2時間弱も経っているので感動の再会だ。しかし!先生が一生懸命に息子を喜ばせる為にあれやこれやしてくれているだろうことは、あの大きな模造紙に張り付いてる手書きの猫を見れば明らかだ。今もピアノを弾いて、いつもの朝の会を通常通り進行させて、園児達と楽しく過ごそうと頑張ってくれている。わたしは抱きしめて離したくない気持ちをグッと抑えて、1秒程の熱いハグの後、手を離し、背筋を伸ばして正座した。この時もわたしは涙が溢れていた。溢れたせいで、息子の優しさスイッチと甘えん坊スイッチを爆裂ON!!にしてしまったんだ、と全てが終わった今のわたしは後悔している。。

普段、わたしが泣くとと涙を拭いて頭をなでなでしてくれる男なのだ。潤んだ瞳のママがいる!大丈夫?の気持ちから始まり、それからと言うもの、息子は25分程、わたしの膝にほぼ座り続けた。朝のお歌を歌う、「さんぽ」を歌う、ラーメンダンス、いろんな動物に変身して歩く、色クイズ、実に多様な方法で園児が喜ぶことをやってくれていて、絶対に息子も好きなやつだと確信した。しかし、息子が選んだのは、わたしの膝に座っていることだった。

「(ふざけて)あのこはね、ぼくの弟なの。」「(面白い動きの友達を見て)みて!なんか面白いでしょ。笑っちゃうよね!あはは」など、お友達を紹介してくれたり、「ママ〜だいちゅき〜♡」「ママだいしゅきだから、一緒にいたいの」と愛の言葉を囁きながらわたしの顔を撫でたりしながら過ごしていた。この結果の要因はわたしが涙脆いことと、息子が優しいのと、甘えん坊なこと。簡単に言うと、息子はママがラブなのだ。

更なる要因として、絶対にママは来ないと思っていた園のクラスにママがいること。それが彼の中ではスペシャルな出来事で、みんなと遊び楽しそうよりも「やった!ママだ!」の気持ちが大きかった。彼の欲求として、その特別な時間をママとくっついて味わいたかったんだろう。終始、ニヤニヤしていて楽しくて嬉しい気持ちが伝わってきた。

しかし親としてはみんなと活動してる姿も見たいという、子供の欲望に反したワガママな気持ちがあった。なので、25分間のうちに何度もみんなのところへ行くように促した。2度の水分補給時間もあり、ロッカーに張り付いていたわたしは立って出口方面に避けなければならず、その都度ピッタンコカンカンな私たちは解消したのだがそれでも口で水筒のお茶を飲みながら、空いてる目でわたしの位置を確認し、飲み終えたらわたしにピッタンコカンカンしてくる。

ここでの基本姿勢は、わたしを座椅子にしてもたれかかって座る、もしくは膝枕で息子が横になるかだ。家で膝に息子が座る時は、そんなに怖くないジェットコースターのベルトのようにウエスト辺りを腕の下から抱えるのだが、ここは手も振ってはいけないと言われている程の厳重地域、参観中のクラスだ。抱えるなんてもっての外。わたしは両手に鉛を持っているかの如く、手をだらんと下に垂らしていた。それでも、ママの手はここでしょ?と無言のラブパワーで、わたしの手を自分のウエストに持っていき抱き締められている形にしてくる。こんなの無茶苦茶だ!あたいはルールなんてガン無視の馬鹿な親だぜ!大きな雨粒に打たれながら、別れたけど助けに来てくれた男の前でなんとか微笑んでいる女、そんな顔をわたしはしていただろう。強力な愛の前では、想像の鉛は意味を成さない。人生の勉強になった。

時計を見ると、もう3分程で見学は終わりになる。最後の大遊びの予感がする。先生の後ろに園児達が連なった。これは間違いない。電車ごっこだ!!!!人数がいるので2メートル程の電車になった。家族だけでは到底この長さには及ばない。これは園ならではの遊び。電車ごっこで楽しそうに遊んでいる息子が見たい、これは親の傲慢だろう。でも最後にどうかお願いします、の気持ちを込めて全力でおすすめしてみた。「見てごらん!電車だ!1番後ろが空いてるよ!ガタンゴトンできるね!乗ってみたら!?」と言うと、ゆるゆると歩いて電車の1番後ろに繋がった。いま図書館で「おばけ園」という本を借りていて、中で楽しそうに電車ごっこをしているシーンがある。息子はその本にどハマり中なのだ。絵本を読むのが習慣化されていてよかった!おばけ園、ありがとう!図書館ありがとう!


これは、かわいい。


わたしの膝の上でリラックスモードになり靴下も脱いでしまって、裸足に上履きを履いた身長100cm未満の3歳児が足を蒸らしながら遊んでいる。楽しくて気にならないのだろう。友達に触れて繋がって、目があったら笑い合う。最高な光景だった。楽しんでる姿は、人を幸せにするんだ。息子が産まれてきてくれただけでわたしは充分幸せだけども、息子が楽しんでいるならもっと幸せだ。週末の上履き洗いというイベントが、もっと好きになれそうだ。

そのあとも時間は過ぎているけど、絵本の読み聞かせが見れた。一瞬こっちに来たけど、お友達の中にも入っていき、園児達がぎゅーっと集まってる背中をもう一度堪能できた。急に動いたりずっと止まったり忙しい息子だけど、全てが愛おしい。親バカと言われても、この気持ちは止められない。

先生から「これでお母さんたちは帰ります。タッチして先生のところに戻ってきてね。」との声がけがあり、また甘ったれの声で「マ〜マ〜、また来てね(嘘泣き顔)」と言われて、足に鉛がついた。この鉛は全く効力が無いことをさっき学んだので、すたすたとクラスを出た。足が気持ちと裏腹な態度をとっているせいか、手の意識が薄まっていて、またルールをがっつり破りさっきより大きめに手を振ってしまった!ここは手を振ってはいけない危険地域だ。ルールは忘れてはいけない。反省した。

ここまでただの一度も書かなかったが、実は夫も一緒に来ていた。横に居たので、わたしが小さい声で「かわいー」「泣きそう」「無理すぎる」と溢れてしまうのを聞いてくれて助かった。独り言の多いやばい奴にならずに済んだ。

この夫が、最後の最後に動きを見せた。すたすたとクラスを離れるのが吉、と判断したわたしを他所に、帰ったと見せかけて、またクラスを覗いていたのだ!!!!そんなのありかよ!と思ったが、確かにその行動はわたしの欲求を更に満たせるかもしれないとゾクゾクした。わたしが急にいなくなって園に残された息子がどうなってるか見たい。ついてきていないということは究極の悲しみで無い事はわかるが、あんなにピッタンコカンカンしていたのだ。きっと少しは寂しいだろう。見たすぎる欲望が抑えられず、人の流れに逆らいとても危険な掟破り覗きをしてしまった。

そこで見た光景は、絶対に一生忘れないだろう。


息子は踊っていた。


とーっても楽しかった!と全身から歓びが溢れんばかりのフリーダンス。自由。これが本物なのか。本物の自由を目の当たりにすると、天国にいるような、ぽかぽかした気持ちになる。息子はオレンジのオーラを纏い、見えない羽衣を大きく風になびかせながら身体を最大限に使って踊っていた。太陽の精霊なんだと思った。

20秒程で夫と2人で覗きをやめ、息子にバレないように口から笑いが溢れてしまうのを手で抑えながらクラスを後にした。幼稚園、年少の35分に渡る参観は人生の機微を味わうことができた。コロナ禍で中止になっている園もたくさんあるだろう。いろいろなリスクの中、開催してくださった園に感謝をしたい。



追伸。クラスの壁には園児達が描いたり貼ったりした作品が飾られていた。どれも独創的で本当に素敵だった。葉っぱの上に丸く切り取った色紙を何枚も貼って出来たイモムシがいる作品では、息子のイモムシは毛虫だった。いちごの形に切られている赤い色紙に絵を描く作品では、息子のいちごは隙間なく水色に塗られていて1人だけ全く赤くなかった。そのことを90歳の祖父に言ったら「虫は毛が生えとるもんなぁ。いちごも成長する前は青いもんなぁ。よー見とるわ。観察眼があるんやなぁ。」と誉めていた。作品を持ち帰ってきたら、家に飾ろうと思う。






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