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創作活動とAIと
昨今は創作活動がAIによって侵略されているような空気を感じる。空気というのは、誰かが侵略しているかどうかだけではなく、シンプルに役割が被っているという意味合いである。今まではコンピュータやプログラムに絵を描かせたり曲を作らせたりすることなど全くできなかったわけだけど、それが依然と比べて容易に準備され、それもインターネットというもののせいで簡単に拡散され、ひとつの覇権というか、領域というか、そういうスペースに入り込み始めているなあと感じる。
そもそも創作活動とはどういうものなのか。一概にこういうものだということはできないけど、私は創作活動とは活動する側に利があるものであるということを一つの前提にしているので、AIがするそれはどうしたって創作活動たりえないのではないと、心の中で定めている。
たとえば私がnoteを投稿する目的である「インターネット上のテクストの価値をほんの少しでも向上させること(=クオリティを上げること)」は、おそらくAIにも可能だろうけど、しかしわたしが獲得している快楽はAIには知りえないことだし、なんなら不要なことである。邪魔ですらあるかもしれない。
私がそうであるように、創作活動にはその創作物や、媒体、手法それ自体に対して愛情がある。興味がある。快楽を伴う。エゴのようなものと創作物の美しさが複雑に重なり合って、見え隠れしながらそこに在るものである。AIができるそれは、中国語の部屋みたいなことで、何らかの統計学と傾向分析に基づいた「あるある」「よく見るようなもの」を、絵であればピクセル単位に、文章であれば単語や文字列単位に、感情無く、再現しているだけなのである。
それでなくとも、創作物には、購入者側がそれらを芸術だと評価することで初めて生まれる価値というものがある。史上初めてAIが描いた絵が高値で取引されることはあれど、AIがコンスタントに生み出す美しい(どこか見たことのあるような)絵を、一体だれが欲しがるというのだろう?
作者の経験と、歴史的背景から生まれた絵は、その美しさ以上に重みを持つ。当時の価値観とバックボーンを知ることで歌詞と音楽に更なる深みを感じることができる。
その作品の「どういう人間が、なぜ、どのようにして創ったのか」は、創作物の価値に直結する。AIから生まれたその作品を評価したいのは、それが革新的に思えてしまう、今のうちだけだろうと、私は思う。