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結局やって来なかった夏の記憶は、知らず知らずのうちにうす桃色の花の蕾に封じ込められる。名前を知らない花の開花を薄明のなかで反芻しようとしても、顔の無い夜の方にするすると逃げて行き、掴もうとする手はただ宙を泳ぐばかり。 早朝のごく限られた時間だけ朝日の射す場所でしか生きられない食虫植物のモウセンゴケは、密生する腺毛に朝露を付着させ、捕らえた光虫を小さな渦巻形に丸めてから、じんわりと消化してゆく。雫から弾け跳ぶ光の予感だけが私を生かしている。 やって来なかった? いや、気が付
おまえが何も 言わないから 私は冬が来ると 冷えた頬に 爪を立てて 忘れかけていた 名前を呼ぶけれど 声はひとつひとつ 空に攫われて やがて真っ白な 結晶になって 舞い降りて来る 部屋の中で 椅子に腰掛けて 空気の襞を じっと見つめる 視野を漂う 血管の細切れの幻 脊柱の後ろを 蟻が這うような 感覚を 引き剥がして 氷の壁に 投げつける たそがれる 窓に張り付いていた 遠いむかしの おまえの声の 残響が だんだん 干からびて 縮んでいって 雪の夜空に 攫われて行くのを 手
自宅前の歩道脇に小さな植栽地がある。十二月の夜、ヤマモモの樹の幹にホタルのような光点がびっしりと群がり、枝からはレモン色の光がグラデーションを描いて流れ落ちる。サツキとオトギリソウの植え込みでは、赤と青と緑と橙色の光が賑やかに点滅している。 だが、玄関のドアを開けて真正面に見えるのは、それらイルミネーションを背景にしたシャリンバイの、洞窟の入り口のような黒々としたシルエットだ。独り飾りをまとわず、周囲の光を捕獲し、吸収し、紡錘形に肥え太ったブラックホール。光は永遠に解き放
冷んやりした部屋の 窓際に椅子を置いて座る 裸電球に照らされた オレンジ色の壁に 魚の形の染みが付いている 耳を澄ますと 梢を揺らす風の中から 足音が聴こえてきた それはだんだん 大きく 近くなって ドアの前で ぱたっと止まった (ただいま 誰も言ってくれないから (おかえり 心の中で呟いてみる また歩き出した 足音はだんだん 小さく 遠くなって やがて消えてしまった 誰だったんだろう 魚の形の染みが 部屋中に広がって行く たぶん夜の海だっ
子供の頃 ぼくは信じていた 何処か遠いところに 黒い湖があって そこには首長竜が棲んでいる お父さん 黒い湖はどこにあるの? ぼくが尋ねても お父さんは何も答えずに 毎日山へ働きに出て行った ぼくは地図帳を開いて 湖を見つけては黒く塗り潰した 奥深い霧に覆われた湖面から 首長竜が水飛沫を上げて首をもたげる そんな想像をして 夜になるとすぐに眠った 真夜中にふと目覚めると 窓から首長竜が覗いている なんだか寂しそうな眼をしていた お父さん ゆ