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日々に遅れて

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詩・散文詩の倉庫03
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#街

日々に遅れて

結局やって来なかった夏の記憶は、知らず知らずのうちにうす桃色の花の蕾に封じ込められる。名前を知らない花の開花を薄明のなかで反芻しようとしても、顔の無い夜の方にするすると逃げて行き、掴もうとする手はただ宙を泳ぐばかり。 早朝のごく限られた時間だけ朝日の射す場所でしか生きられない食虫植物のモウセンゴケは、密生する腺毛に朝露を付着させ、捕らえた光虫を小さな渦巻形に丸めてから、じんわりと消化してゆく。雫から弾け跳ぶ光の予感だけが私を生かしている。 やって来なかった? いや、気が付

光る髭

レース越しにうっすらと 円い鏡の見える出窓は 雲の螺旋階段ではなかった 月から吊り下げられた ゼラニウムの鉢でも コスモスの咲く庭でもなかった ただ私を送り出す人が 立つためにある出窓   朝の舗道を歩く それぞれの 靴跡は剥がされて 風の波紋を漂っては 消えて行く方向へ 顎先は誘われて 剃り残しの髭の二つ三つに 鈍く光るものを触知して ふと佇む 灰色の敷石のうえ   花はもう 散り果てている 代わりに芥が 花を模写して舞い踊る それは小さな 螺旋階段であり 街路樹に降り注ぐ

赤信号の交差点で停車した 今日は遠くの山並みがよく見える はて こんな風景だったかな?   ビルが二つ取り壊されて 見晴らしが良くなったのだ 跡地は舗装されて駐車場になり その奥にコンビニが出来ている   青信号に変わって左折した 光と影のコントラストが強くて こちらの通りも知らない街みたい   橋を渡って少し走って右折して ホームセンターの園芸コーナーへ   知らない店に来たような秋の朝 知らない花の鉢を買おう

遠目には黒い紐に見えた。近寄ってみると蛇の子どもだった。体長は二十センチちょっと。JR新幹線駅の東口を出てすぐの、駅前広場のフロアタイルの上に横たわっている。尻尾の後方の、コンクリートの柱と床との接合部に、蛇が出入り出来そうな亀裂が開いている。その奥に巣があるのだろう。小さな頭を僅かに床からもたげているが、なにしろ全身が真っ黒なので、どこが眼なのか皮膚から判別するのが難しい。駅前広場のずっと向こうを眺めているような姿のまま、ピクリとも動かない。その眼にはどんな世界が映っている

夏空

遠くの山並みは ゆっくりと褶曲を続ける 太古の竜の背骨 あの海に浮かぶ島々は 夜半に宇宙から墜ちて来た 小惑星の群れ だけどその上に ずっと遠くまで広がる 夏空と 流れて行く雲は かつて通り過ぎた街と とうの昔に別れを告げた人達が ふと振り返って 僕に寄こしてくれた通信だから 遠のいて行く街並みと 後ろ姿の白い肩先に 僕はどうやって 呼びかけたらいいのだろう 川堤の道のつゆ草と 萱の茂みに挨拶をしながら まだ青い稲穂を波立たせて 風が午後の平野を吹き抜けて行く 風よ 

首長竜

子供の頃  ぼくは信じていた 何処か遠いところに  黒い湖があって そこには首長竜が棲んでいる   お父さん    黒い湖はどこにあるの? ぼくが尋ねても  お父さんは何も答えずに 毎日山へ働きに出て行った ぼくは地図帳を開いて 湖を見つけては黒く塗り潰した 奥深い霧に覆われた湖面から 首長竜が水飛沫を上げて首をもたげる そんな想像をして 夜になるとすぐに眠った 真夜中にふと目覚めると 窓から首長竜が覗いている なんだか寂しそうな眼をしていた   お父さん    ゆ

朝 玄関のドアを開けて 階段を降りて行く セメント工場の方角から 何かの軋む音が 聴こえて来る 時間が並ぶ順番を 決めているのだ 一階に降りて 道路に出る 左足と 右足を 踏み出すたびに 敷石が現れて 歩道が出来ていく ヤマモモの並木も 生えてきた 斜め前を はや足で歩く 足首から膝までの ストッキングと 黒いパンプス だんだん胴体も現れて OLさんが 出来つつある ぼくもそろそろ 出来上がる 頃合いだ 斜め後方に走り去る 自動車の エンジン音 残響に