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「言葉が好き」という傲慢
「言葉」で生きていきたい
まるで言葉が自分のアイデンティティとでも言うように、そう宣言していたことがありました。
でも気がついてしまいました。
言葉は私だけのものじゃない。人が音にして、文字にして、色々な形でコミュニケーションをとるために生み出した言葉は、私だけのアイデンティティにしてはいけないものだとわかったのです。
っていうのも、麻布競馬場さんの『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の「僕の才能」がだいぶ刺さっちゃったんです。
私は平均よりちょっと文章が書けて、言葉に対する感度が高くて、そして、言葉には特別な力があると信じていました。
新しい言葉に出会う喜びや、ずっと言えなかったことが言語化された時に感動できることを心底素敵だと思っていました。
自分で文章を書くことも好きです。書くことでストレスが発散されて、書くことでその瞬間だけは違う世界で生きていられるような気がするからです。
『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』は先に漫画版で読み、その後で原作を読みました。漫画は主人公の妄想から始まるんですけど、「別にコピーライターじゃなくなってよかったんです 自分を表現する手段がたまたま「言葉」だったってだけで…」と彼は言いました。
なんでこんなに腹が立つんだろう?
「言葉」を成功の道具にしようとしてるから?
そんな正義のようで独善的な理由で私は怒っている?
私が大切にしていたネックレスを目の前で引きちぎられたような気持ち。
というか、大切にしていたネックレスは最初から私だけのものではなかったことにやっと気がついた、そういう気持ち。
私は「言葉」が好きだし、生きるために、自分を表現するために言葉が必要だと思っています。そうやって思っている人はごまんといるはずなのに、私はこの「好き」を私だけのものだと思っていた。
作品の中の「僕」は特に言葉に執着しているわけではなく、漫画・音楽、そして辿りついた言葉に可能性を感じて、己の才能を信じてみたいと思っているだけなので、私と境遇がぴったり重なるわけではありません。
でも、そんな人でも使えてしまうんです、「言葉」って。
「言葉」での自己表現が得意である、という「自分らしさ」は自分だけのものではなかったんだと、初めて意識しました。
就職活動では「言葉と生きていきたいです」をキャッチコピーに自己アピールをしようと思っていました。だけどこの言葉がいかに傲慢だったか、どれほど普通で、ちょっと意識の高い「私変わってますよ」って人が使いたがる謳い文句だったのか、やっと気がつきました。
言葉に対する感度が高くて、世の中に素敵な言葉をたくさん残していきたい!と熱意を持った人が多い職場で働きたいです。それは本当なんです。
でも、同僚や先輩と「言葉って素敵だよね〜!」と、「これからも良い作品を世の中に発信していこうね!」と、居酒屋で熱く語ってみたいかと言われると、そこまでは言い過ぎ。
「えっ?言葉に対してそんな敏感になったことなかったわー」とか「そんな感覚持ってる人、あなたが初めて!」とか、そうやって言われたい。
同じような感覚を持った人の中で輝くのは、全く違う世界で生きている人の中で輝くことよりずっと難しいと思います。差別化も、個性化もできないから。
だから「言葉」は盗られたくなかった。私の「言葉」に対する思いに疑いを抱かせてほしくなかった。
拠り所にしていたアイデンティティが消えた今、盗る•盗られるという考え方から間違っていることに直面させられています。言葉は普遍的なもので、だからこそ私のように言葉に興味を持つ人間が必ず生まれます。私が運命的にそういう人間だったのではなく、たまたまそういう種類の人間に私が該当するってだけ。
でも、わからないです。同じような感覚を持つ人と関われたら絶対に楽しいとも思います。私が今恐れているのは、同志と出会うことではなく、同志と出会うことで自分のアイデンティティを失ってしまうことです。
長生きすると仮定して、人生のテーマがないのは寂しいです。自分はこういうキャラクターで、こんなシナリオを生きてきたんだと最期に納得できる生き方がしたい。
最後に一つ。この本を紹介してくれた人には申し訳ないけれど、チルで虚無で諦観が満ち満ちたこの世界観、私は好きじゃない!ので、おとなしく浅田次郎の言葉たちに浸ってきます。