切腹 ――画像しりとりはじめました(#178)
(#177) 目配せ→「せ」→切腹
控訴なのだ
却下なのだ( ̄∀ ̄)♪
……(゚д゚)!
切腹とは、短刀や日本刀のような刃物で自らの腹部を切り裂いて死ぬという自殺の方法である。
【業務連絡的な注意喚起】―――――――――――――――
今回は、私、松平雅楽守の個人的かつ独善的な見解も含め、いささかマヂなトーンの重めの話題がメインとなり、正直、笑える要素を取り入れる自信がありません。
もし、奇蹟的に笑える要素が多少なりと盛り込めたようなら、この部分を削除するつもりなので、この「【業務連絡的な注意喚起】があるということ=この先の内容は笑えない」ということの証左でもあります。
本来、この【画像しりとりはじめました】企画は、せちがらい世の中で、ほんの一瞬でもクスリと笑える時間がつくれたらいいな(*´∇`*)♪――がコンセプトなのですが、なにせ書いている本人が、成り行きまかせの出たとこ勝負で書き殴っているため、なかなか思うにまかせません(*´Д`)。
明日以降もここにこうして書きに来ることができたなら、精一杯、笑いを提供できるようなマインドで書きたいと思いますので、今宵のところは平にご容赦くださいませm(__)m
あくまで個人的な見解であり、もちろん異論があるのも承知していることではありますが、私は自殺についてはたとえどんな理由があろうとも反対の立場をとるものです。
理由はわりとシンプル。それは――
今までに生きていくため食べてきた命、飲んできた命に対して責任があるから
これだけです。
よく、自分の命だからどう使おうが自分の勝手だろう!と仰る方がいます。もし、そういうあなたが、それまでどんな命も喰らうことなく生きてきたというなら、ちょっとだけその主張を認めます(⌒~⌒)♪
(――ちょっとだけ、というのは、その部分を除いても、あなたには、生んでくれた母、育ててくれた父、若しくはそれに準ずる者、への義理というものが少なからずあるからです)
そんなこと言ったって、食べてきたものはもうどうしようもないぢゃねーか――確かにそのとおりなのです👆
だからこそ、厳しい言い方になるかもしれませんが、
あなたにあるのは
生きる権利(死ぬ権利)であり、それと同様に生きる「義務」
だと思うのです。
まあ、かくいう私も、若い頃は「死にたがり」だったので、あまりエラそうなことは言えないわけではあるのですが(^^ゞ💦
幸か不幸か、私は、私の周りにいる人たちよりは少しだけ死に近い場所を歩いています。
ここまで達観っぽい心境に至るまでには、
痛みとともに生きるのは正直シンドいなぁ、
いっそ楽になりたいなぁ、
そんな風に思うこともしょっちゅうでした。
でも、私は自ら死を選びません。
ここまで生き永らえるために関わってきた総ての命に対して責任があるからです。
で、生きる義務があって生きる、同じ生きるなら、苦しんで生きるのも笑って生きるのも同じ一生、同じ一生なら笑ってる方が多少は楽かな(*´∇`*)♪
――ま、アホの子日本代表レベルの私が考えることなど、その程度の単純明快な発想ですねぇ。
もちろん、これは冒頭述べたとおり、あくまでも私の個人的な見解です。
人さまに強要すべきものでもないですし、ことさらに共感してもらおうというものでもありません☆(⌒~⌒)☆
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さて、前置きがとてつもなく長くなってしまったが (いや、これ前置きだったんかい(・_・))、
そんな思考スタンスの私からすると、この切腹システムというものが、ものすごく女々しく見えて仕方ない(*´Д`)。
一口に切腹といっても、そこにはいくつかのパターンがあり、実はそれぞれに呼称があったりもする。
追腹…主君の死に殉じ、冥府までお供仕りまするぅ~というヤーツ。手段はとても適当だとは思えないが、心情的にはまだ理解できるヤーツ。
詰腹…職務上の不始末等の責任を取るため、またはさまざまな義理を果たすために行うもの。『女々しくて』パターンは、大体ここに集中する。
無念腹…不本意ながら切腹するケース。実は本来の切腹はかくあれ、的なものも概ねここに含まれる。
指腹…元AKB48のセンターを務めたこともあるあの人のことではない。切腹が刑罰の一作法となった江戸中期以降に出始めた特殊形態。
別腹…胃の99%が満たされた状態にあっても、スイーツを見た瞬間に胃に謎のスペースが確保されるという特殊形態。
そもそも論なのだが、さまざまな自害の方法がある中で、何故に切腹なん?――てトコはしっかりと押さえておきたいポイントである。
先の5千円札の肖像としても知られる新渡戸稲造がその著書『武士道』の中で述べているように、当時の日本人は、人の真心はお腹の中にあると考えていたようだ。
つまり初期の切腹には、濡れ衣を着せられた者が、その「真心」を見せることによって自らの無実を訴える、そんな側面があったのだ。
とはいっても、腹かっさばいて血の滴る臓物を見せつけられ、
「見ろ!これが拙者の心だ!無実の証だ!」
などと叫ばれても、見せられた方は
確かにそうだね、これは無実だね、とはならないだろうし、
せいぜい、
ぅわグロっ!( ゚Д゚)!
はいはい、分かったから早くしまって!それ!
――ってコトになるのだろうが、少なくとも、腹を切るとはそういう意味合いがあった、ということは前提として押さえておかねばならない。
無実を晴らす結果として死ぬことにはなるだろうが、本来の切腹とは、極端なことを言えば、「無実の証明」さえできれば別に死ぬこと自体はマストぢゃないわ、まで踏み込んでもいいくらいだ。
血の滴る臓物という「真心」を見せ、もしもそれで相手が納得したのなら、その「真心」はそのままお腹に戻し自分で自分の腹を縫い合わせてしまえば一件落着だ。
……もちろん、それで生きていられれば、というシュールな条件は付くけれど( ̄∀ ̄)
だが、その思想は時を経るにつれ歪みながら次第に形骸化していく。
「真心」を見せることよりも、「腹を切ること=死」そのものに意味を見出そうとし始めるのだ、これが。
確かに、腹十文字にかっさばくのはビジュアル的にも映えそうだし、「武士の勇気を見せつける」的な側面にも資するトコはあるだろうけど、それは切腹本来の意味ぢゃない。
こうして、江戸時代後期から明治にかけて、
最終的には、なんか不始末があれば切腹ひとつで、はい終了。
やらかした本人が腹切るならまだしも、ヒドい時には、全っ然関係ない下っ端の者が責任取らされて切腹、はい終了 (*1)。
そんな短絡な自裁 (時に他裁) 制度へとなり下がっていく。
この「切腹して死んだらそれでもう責任は追及しなくていいよね」システムって、逆に随分と無責任なシステムにも感じられるのだが(・_・)。
いやいや、アンタが見せにゃならんのは「真心」でしょ。「真心」見せずにナニ、勝手に死んどんねん――と。
切腹は、江戸中・後期から明治まで、刑罰の一手段としての側面も色濃くなっていくのだが、ここにも、もはや当初あったはずの切腹の意義――無実の証明として赤心を示す――は微塵もない。
それどころか、むしろ逆に濡れ衣着せて殺しちゃえ、
死人にクチナシだ( ̄∀ ̄)ニヤリ……なんてことにすらなってしまうケースも、決して少なくはない。
本末転倒も甚だしい(-_-メ)。
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ここで再び、私の個人的な法律・刑罰に関するスタンスの話になってしまいます。
私は、ある条件下以外での死刑には基本的に反対という立場です。
理由は、冤罪があった場合に取り返しがつかないから、という一点においてのみです。
だから、死刑を認める条件が一つ――いや理論上は二つかなw――あります。
一つは、現行犯で人を殺めているのが明らかで、かつ本人もそれを認めている場合。
これは、疑う余地なっしんぐですから。
古く『ハムラビ法典』が掲げているように「人の命を奪った者はその命で贖う」それが正当かつ公平な裁きといえるからです。
そしてもう一つの条件。それは、
死刑が執行された後で冤罪が発覚した場合、無実の罪で国家に殺された無辜の人を責任をもって冥府から召喚し、再び安寧な市民生活を保障することができるような復活システムが実現すること。
これができるなら、死刑もアリです( ̄∀ ̄)♪
(できるなら、ね)
そうでない以上、公判中にどれだけ状況証拠が積みあがって99.9%コイツが犯人ぢゃん( ̄∀ ̄)て多くの世間さま的に納得いくような状況であっても、本人が否認する限り、死刑はあり得ない。そう考えます。
もちろん、この考え方も先に示した自殺に対するものと同様、あくまで個人的な見解にすぎません。
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ベーシックな考えとして、不始末の責任を取るための自害としての切腹も、刑罰としての切腹も、個人的には、武士としての責任ある態度とは到底思えない。
恥じ入るほどの不始末の責任をとって切腹。
一見、潔い責任の取り方、勇気ある決断、そう見えるかもしれない。
でも、それって本当に責任を取ったことになるだろうか。
本当の責任は、不始末を起こしたのならその不始末を補って余りあるくらいの働きをその後に見せて払拭する、そっちじゃねーの?( ̄∀ ̄)?
なに、死んで楽になろうとしてんのよ、って話だ。
生きて汚名を雪ぐのは、死んで楽になることの何倍も険しい選択肢である。
だからこそ生きて会稽を雪ぐ、それが武士の本懐だと思うけどねぇ( ̄∀ ̄)
命一つ易々と投げ出してそれで解決。
総てのケースがそうとまでは断言できないが、それは本質的な解決ではなく、解決したようにみせかけ有耶無耶に終わらせているだけではなかろうか。
その有耶無耶な自害は、自発的な切腹ではない刑罰としての切腹にも当然思想的に反映されていくから、例えば「堺事件」みたいなケースでも根本的な解決ではなく、
とりあえず誰か腹切っとけみたいな無責任で安易な着地点しか見いだせなくなっている、そんな風にも思える。
少々大げさな言い方をすれば、その「誰かが詰腹切らされたらとりあえずそれで終了」て短絡思考は、もうすぐ2023年になろうとしているこの現代日本においても、その思考の根底にどよよんと流れている、そんな気すらするのだ。
私は決して自殺を良しとしない。これは先に述べたとおりだ。
それは、生き永らえた自分の命を大切にすることによって、これまで食として奪ってきた多くの命を大切にすることであり、これからも奪っていくだろう多くの命に責任を持ちたいからでもある。
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私の大好きな漫画の一つに『花の慶次』がある。
主人公の前田慶次や、その莫逆の友、奥村助右衛門、あるいは直江兼続といった面々も、それぞれに素晴らしい名台詞、名場面を残しているが、個人的に一番好きなシーンは次のとおり。
時間がないのでかなり端折ってしまうが、画面右手のハゲは蛮頭大虎。
戦場のさなかでたった今、喉を突かれ、致命傷を負ったところである。
そこに現れた前田慶次に尋ねる。
「わ…わじ (わし) ……死ぬのかな?」
その顔には、困惑と恐怖がありありと浮かんでいる。
「ああ」
慶次、わりとマジな顔で、めっちゃアッサリと死刑宣告♪(≧▽≦)♪
自分の命がもう残り少ないと悟り、敬愛する慶次にもバッサリと一刀両断された大虎は、戸惑いながらどうすればいいかと訊ねる。
そんな瀕死の大虎に涼やかに答えた慶次のセリフが上記のそれなのだ。
何も考える事はない
好きなようにするさ…
そして 駆けるだけ駆けたら
死ぬさ
慶さん、たまらんぜ、そのエール(o^-')b♪
こうして、ふっきれた大虎は、最後の力でまさに駆けるだけ駆け、戦うだけ戦い、最後の最後に大きく慶次の名を呼び、それに応える慶次の声を遠く聞いて、一言。
――そして立ったまま静かに絶命する。
このセリフが、個人的に『花の慶次』で一番好きなセリフ(*´∇`*)♪
こんな風に、その日がくるまで
一日一日を精一杯、一所懸命に「生ききる」
その時、そばに誰がいるかは分からないが
(誰もいない可能性がけっこう高いからなぁ……(^^ゞ💦)
もし、誰かがいたとするなら、やはりこう言って逝きたい――
「お先に。」
これが私の最期の夢かな(⌒~⌒)。
もしかしたら、その時そばにいるのは、フツーにどこぞのお医者さんで、唐突に「お先に」言われても
いや、知らんがな(・_・)
そう突き放されるのがオチかもしれないけどね( ̄∀ ̄)💦
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今日の〆の一曲は、角田信朗で『よっしゃあ漢唄』
『花の慶次』のテーマソング。角ちゃん、カッコよス(*´∇`*)♪
おっと、今宵ももうこんな時間だ。今日もかなり押してる( ̄∀ ̄)
ギリギリ…だ。
そんなこんなで、
明日も、なるべく多くの人が
それぞれにそれぞれの「責任」に向き合い一所懸命な一日でありますよう✨
■ おまけ
今回の画像しりとり列車 (178両目) の前の車両です。タイトル「目配せ」と下のネタ画像で、なにこれ?て引っかかりを覚えた方がおられましたら、時間が許すような時にでも、覗いてみてやってください。