クリスマスの、
気づいたらクリスマスが終わっていた、というのは大袈裟でも何でもなく生まれて初めてかもしれないです。
自分が悲しくて落ち込んでいても、世間は当たり前にいつも通り動いていて、少しくらい心配そうな顔をして時間をゆっくりにしてくれたって良いのに窓の外からは日常が進む音がして、そういう時に自分の気持ちだけが取り残された様な感じがして益々悲しくなります。
自分悲しいアピール★みたいなのでも何でもなく、悲しいことがあった時は文字に起こして自分の気持ちを整理するのが1番自分に合った消化方法なので今も書いていますが、苦手な人は読まないで下さい。
後悔することばかりです。
大事な人の死に面と向かい合って、自分の行動に後悔しているのが初めてなので抱えきれない。
忘れないように残しておこうと思います。
20日の朝に実家にいる母親から電話があり、祖母が緊急搬送されたことと、その病院が私の最寄りから地下鉄で20分ほどであることが告げられたので飛び起きて5分で準備をして家を出ました。
手術はなんとなく成功するような気がしていて、その日は特段慌てることも無く冷静だったと思います。手術を待っている間に少し遠方から叔母が到着し、お医者さんから説明を受けました。内容を母にLINEで送り、なるべく心配しないように明るい内容を伝えました。実際手術は成功して、2.3日経てば退院できるとのことでした。
その日は本来学校に行った後に年内最後の美容室に行き、用事を済ませてこれまた年内最後のサークルのライブに備えて練習をいれていて予定が立て込んでいたことと、21日に母親が九州から北海道へ来る予定だったので、また母と2人で病院に来れば良いと思い、30分ほど祖母の手を握り、声をかけてまた来るねと言って病室を後にしました。学校なんてどうだって良くて、美容室なんていつでも行けるんだからもっと手術を頑張った手を握ってそばにいてあげれば良かったです。祖母の口癖は「死んでしまうのは順番だからね、」と「もう(十分生きたから)いいんだ、」でした、いつもふざけてこれを言ってこのブラックジョークで私と母を困らせていました。
21日の朝、叔母さんから電話があり、祖母の呼吸が停止したと病院から連絡があったと言われました。心肺停止では無いという事はまだ亡くなったわけではないということ、その日は朝10時から本番前の練習が入っていること、このライブの出演をキャンセルしたら沢山の人に迷惑をかけること、かなり大きな額のキャンセル料が恐らく発生すること、あらゆることが一気に頭の中を駆け巡りました。
叔母さんも少しパニックになっており、私に「一回病院に行って説明聞いてからまた電話するから大事な用事があるなら来なくて大丈夫だよ」と言いながら、「呼吸停止ってどうなの?死んでるわけじゃないんだよね?」と何度も私に聞いてきました。看護師の資格を持っている癖に私もハッキリと答えられず、心臓が停止しているわけではないのならば、、と今思うとぶん殴りたくなるくらい深刻に考えていませんでした。
とりあえずバンドのLINEに連絡をして、話している時も焦っていながらどこか他人事のような気持ちでした。
私はパニックになると逃避してしまう傾向があるようです、同期の子に「プロアーティストじゃあるまいし行った方が良い」と言われ、後輩に「あの時こうしていればよかったはないほうが良い」と言われて目が覚めました、この2人のこの言葉には本当に感謝しています。
走って最寄りまで行き、地下鉄に乗っている最中にようやく冷静になってきて実感が湧き始め、人生初の号泣地下鉄乗車をしました。そして何を思ったのか一つ前の駅で降りてしまい、焦り、次の地下鉄を待つよりタクシーを呼んだほうが早いと判断してタクシーを呼んだは良いもののわけも分からず信号の無い車道を2往復しました、死にたいんか?そうして地下鉄一駅分の距離に1000円を払い、駆け込んだ時には亡くなった後でした。
LINEでどうしようどうしようと言っていた時間のラグが後悔してもしきれないです、とりあえず何も考えずに病院に行ってから考えるべきだった、何事もなかったのならそれで良かったねで病院から戻れば良いだけの話だった、死亡時刻は私の到着時刻から20分ほど前でした。
電話が来てからすぐに家を出ていれば確実に間に合っていて、家族控室で叔母と2人待機している間はそればかり考えてポロポロと泣いていました。とりあえず空港に向かっている何も知らない母に連絡をしなければと電話をし、嗚咽で話せない叔母の代わりに私が現状を伝えました。私よりも何倍も辛いのは母と叔母であること、あくまで母は道中なので焦らせないことが最優先であること、をずっと考えていて、絶対泣かないと決めて会話をしました。私は長女だから、とずっと自分に言い聞かせていましたが今思うと炭治郎?って感じですね。
もし間に合っていたとしても、心臓マッサージの途中だったと思います。心臓マッサージは肋骨が折れるくらいやるのが相場で、叔母が駆けつけた時もかなり出血していたそうで、さらにそんな辛いマッサージを継続するか中断するかという究極の選択を迫られていたというので、きっと祖母は私にそんな姿を見せたくなかっただろうし親を差し置いて私にそんな選択はできなかっただろうから間に合わなくて良かったんです、そう都合の良いように解釈する事でしか自分を慰められない。
ごめんなさい、ごめんね。
こんなに近い距離にいるのだからもっと会いに行けば良かった。
これじゃあ私が何の為にこんな遠くの北海道まで進学したのかわからない、
よく色んな人に、何でこんなところまでわざわざきたの?と聞かれて「親の実家がこっちだから〜」とか適当に答えていたけど、紛れもなく私は「北海道が好きだから」の一択でここに来ていて、北海道が好きなのは祖母との沢山の思い出が詰まっていたからで、私にとって毎年北海道で過ごす1ヶ月の夏休みは帰る時に大泣きするくらい大切で大好きな1ヶ月で
トイレに貼ってある8月のカレンダーを見ながら31日までの日数を数える毎日とか、みんなで行った地元のお祭りとか、買い物に行く時にいつもくれるお小遣いの重さとか、札幌まで電車に乗って妹の誕生日プレゼントを選びに行って「一年に誕生日が2回あるみたいだねえ」って言いながら私にもシルバニアを買ってくれたこととか、札幌まで出る日は必ずみんなでお寿司を食べたこととか、私が作った料理を美味しい美味しいって食べてくれたこととか、大学生になって北海道にきてからは年越しを2人で過ごしたこととか、ごはんを沢山作って持って行ったら食べきれなかったこととか、施設に入ってからはきのとやの細長いシュークリームを毎回買って持って行って一緒に食べたこととか、中々会えない母とテレビ電話を繋げてあげたこととか、いつも聞いてくる他愛もない学校の話とか、今は女の子も沢山勉強するんだねえっていっぱい褒めてくれたこととか、おばあちゃんの話す柔らかい北海道弁とか、
忘れる方が難しい。
一年に一回しか会いに行けなかった昔は毎日を大事にしていたのに、すぐに会いに行ける距離になってからの方が会いに行く日が少なくて
いなくなってから大切だったものに気づくって本当にこのことだと思います。
会いに行けばすごく喜んでくれてたんだから、もっと沢山会いに行って、もっと沢山話して、もっと沢山手を握ってあげれば良かったと後悔してもしきれません。
棺にいれた手紙で謝って、許されようとしていることも図々しくて、つくづく自分が嫌になります。
本当にごめんね。沢山ありがとうね。
母がお母さん、と呼ぶ声を聞くたびに泣きそうになります。
私は沢山泣いたけど、母はまだ思いっきり泣けていないのが心配です。
死んだら人はどうなるのでしょうか。
ずっと考えています、死ぬのは怖いけれど、親がいなくなったら怖く無くなるのではないかという気がしています。
もっと自分の身近で大切なものを認識して大事に出来る人間になりたいです、
会える時に会う、話せる時に話す、当たり前のことのようで実は難しい。
また今度の今度は数分後には無くなっているかもしれないから
次はもう2度とこんな後悔をしない様に生きていきたいです。
これは祖母からの最期の教えだと思います。
P.S.
おばあちゃんに再び会うまで順調にいけばあと60〜70年後だと思います。
その時までゆっくり天国から見守ってくれると嬉しいです。
長くなってしまいました、
また会う日まで!