自分の書いたエッセイを、自分で褒めるだけの記事。
あけおめ~!45²年もよろしくお願いします!米津玄師紅白本当にありがとうございました。皆様のお力添えあってこそのことです。お前は米津玄師の何なのかって?何でもない、ただのしがないファンだぜ、ああああ今回のツアー当たらなかったよおおおおおおおおおおお!!!!!!
今日は敬体じゃなくて常体モードのはねだわよ。
筆が言うことを聞かなかったので前回の記事の続きを書くことは諦めた。
記憶が薄れる速度が常人の100倍なため、「わたしがアクセラ0期生になるまで」は②が永遠に上がらないシリーズ(?)になるかもしれない。まあそれはそれでアリ。しゃーない。人生だから。
エッセイとバイオリン
この1ヶ月くらいを振り返ると、うんうん唸りながら自分自身を象る言葉を並べ立てて過ごした時間が比較的多かった。俗にいうエッセイというやつである。
私はこのエッセイというやつが些か得意ではない(模範例や型を学習した経験がないためだ)が、思想や主張を織り込み、私が楽しいだけの言葉遊びを紛れ込ませて、文章を勢いに任せて生み出すのは大好きだ。
さて、今日はここ最近で私が書いたエッセイを引っ張ってきて自画自賛するパーティを開催したいと思う。ドレスコードは暖かい心だ。
海外大志望動機
についてのエッセイを出せと、高校に言われた。はあ。志望動機ですかい。そいつぁなんて書けばええんですかい?馬鹿正直に、講演会に来た怪しい兄ちゃんに魅せられたんです、とでも言えってんですかい。
☝運命の「怪しい兄ちゃん」との出会いはこちら
はあ、と答えて教師からプリントを受け取ったはいいものの、正直何について書くものか迷った。私の海外大志望理由は複合的で、正直にゼロから言語化しようとすると世間知らずの生意気なガキ感が満載で、見栄えが良くない。
出願においてというよりセルフブランディング的な意味合いで、映えというのは結構大切だと私は思っている。その場の注目を一瞬で引き付ける華やかさを、見た目でも、人間性でも身に纏いたい。文章においても例外ではない。
映えるエッセイを書けるようになりたいのだ。
とここまでアツく理想を語ってしまったあとで自分の書いた文章を出すと、「ビッグマウスなのに実力無ぇジャ~ン!!」と怒られそうだが、要は志望理由を愚直にまっすぐ書くことは辞めてみた、ということである。
別の過去の自分の経験と絡めるということをこのエッセイではやってみた。
本文の一部
を以下に抜粋する。
ちょっと、待って✋😥
良すぎない⁉️😤😤
あまり志望理由らしくは見えないかもしれないが、中2から高1まで心血を注いだ演劇をテーマとして書いてみた。自分では気に入っている。
しずかちゃんだって自分のバイオリンは至高だと信じているはず
なので、このエッセイが本当に映えているのかは私自身大きな疑問だが、一旦脇において、自分の文章が好きすぎるので良い表現を紹介させてほしい。
これは単純に「自分の日本語すき~~」って言いたいだけのやつ。
「なぜか」と「どうしてか」は近い意味だとしても、全く別の響きを持つ。「他ならぬ」と「他ならない」もそうだ。「他」を敢えてひらがなにすることで新たに立ち昇ってくるニュアンスも存在する。そういうものを全て取捨選択し、「自分自身が浮き上がる」というフレーズに収束させる鮮やかさ。うーんこの文章好きだなあ。
凝縮って。光を凝縮して爆発って、オシャレすぎないか??
「さえ見える」の「さえ」がワンクッションの役割を果たして、いい感じのリズム感を生み出していて好き。なんか、この文章書いた人と仲良くなれそう。
宮崎駿か…?
「この世は生きるに値する」という表現から宮崎駿監督を連想する人ももしかしたらいるかもしれないが、厳密にはこれは宮崎駿自身ではなく、宮崎駿を深く敬愛している米津玄師から影響を受けて出てきた言葉選びである。
うわ。私、影響受けた相手、わかりやすすぎだろ。
ただ、引用の引用だろうと何だろうと、言葉の持つ力は色褪せ得ない。この世は生きるに値すると私は本気で信じているし、それを証明するためにこの人生の価値を自ら駆けずり回って創り出していく所存だ。
褒めてもらえる、ということ
エッセイの話題はここまでとして、「褒め」の効果を最近身をもって自覚しているという話を少しさせてほしい。以下は、アクセラのゼミのみんなと今日までの振り返りをしたときに、みんなが私に寄せてくれたコメントだ。
私が驚いたのは、ここにある多くが、自分で自分を形容しようと思っても絶対出てこない言葉だったことだ。「素直」とか「自分を俯瞰」などが特にそう。自分のことは素直だと思っていないし、俯瞰して自己認識ができている状態からも程遠いと思っている。だからこそこのように自分の評価を得られる機会というのは本当に貴重だ。みんな、心からありがとう。
そして、人から正当に評価してもらうことと同等かそれ以上に、自分を自分で評価することも大切だと、最近しみじみと感じている。
自分が「良い」と思えない表現はその発露した形が何であれ、人の心を動かすことはできない。自分自身が心から納得でき、ずっと触れていたいと思えるような表現ができるようになって初めて、「人はこれを見てどう思うだろうか」という視点を鑑みるべきだと私は思う。
最後あまりまとまらなかったけれども
毎度のごとく、こんな取っ散らかった文章を読んでいただいてありがとうございました。わたしと画面の向こうのあなたに幸あれ。
また次回!