「日向の匂い」-日本人が歩んできたキリスト教の歴史(後編)-
今回の記事は私の教会における信徒証言である日本におけるキリスト教の歴史を元にした記事となっております。前編ではカトリックの日本へのキリスト教伝来から、江戸時代の禁教令とその後までお話ししました。(※1)後編の今回は開国に伴い、長崎で布教活動を行っていたプティジャン神父が隠れキリシタンと出会ったエピソードから現代に生きる私たち日本人のキリスト教のあるべき姿についてです。
浦上四番崩れとキリスト教黙認
プティジャン神父は隠れキリシタンの存在を来日前から知っており、隠れキリシタンに出会い、布教をしたいという想いから来日した人物です。しかし、プティジャン神父の布教活動は長崎在住の外国人居留民に限定することを条件に許されていたものであり、日本人を対象にキリスト教を布教することは禁じられていました。そのため、プティジャン神父の想いとは反対に隠れキリシタンとの接触は困難を極めました。プティジャン神父は仏像を見たときに、仏像の微笑みを隠れキリシタンと接触できない状況をあざ笑っている薄笑いだと感じたと記録しています。そうした中で1865年3月17日に隠れキリシタンがプティジャン神父のいる大浦天主堂を訪れました。そのときの様子について、「日本キリスト教復活史」(フランシスク・マルナス)より、少し長いですが、引用させていただきます。
そして、隠れキリシタンはプティジャン神父との接触により、仏式による葬式を拒否するようになっていきます。しかし、当時の江戸幕府は、寺請制度の拒否の証として仏式での葬式を拒否することで、キリシタンであることを明らかにした人々を権力に対する挑戦とみなしました。1867年、江戸幕府は公然とキリシタンであることを表明した人々に対し、後に「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧を行いました。弾圧の途中で明治維新が起こりましたが、明治新政府ができた後もキリシタンへの迫害は継続され、1870年までに浦上のキリシタンは萩、津和野、山口などへ強制的に送還されます。送還の行程では疲労などで死者が続出するなど、過酷を極めました。また、送還先では、改宗を拒む者と改宗をした者との間で食事の量や住環境など待遇の面で差をつけるなどの分断工作が行われた事例もありました。特に、津和野藩では新政府の神祇官福羽美静(ふくばびせい)がキリシタンの改宗を強引に推し進めようとしたこともあり、水責め、三尺牢への投獄といった過酷な拷問を行ったため多くの死者が出ました。
このような状況は当然欧米諸国からの反発、抗議を受けることとなり、岩倉使節団は訪問先のアメリカ、イギリスなどでキリシタンへの処遇、信教の自由について批判されることになります。また、明治新政府の内部では神道国教化、廃仏毀釈を目指した尊王攘夷の影響を受けている勢力と、外国との関係上キリスト教の禁止は現実的ではないと考える勢力との間でキリスト教徒に対する政策を巡って意見が対立します。
1873年、明治新政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、キリスト教を事実上黙認することで、キリスト教徒への弾圧をやめました。以後、拘束されていたキリスト教徒は解放され、帰郷することとなりました。
信仰の自由とキリスト教信仰
その後、1889年の大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法の第28条で、信教の自由は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と条件付きで保障されることとなりました。しかし、「臣民タルノ義務」を巡り、キリスト教徒の信仰と天皇制国家のイデオロギーとの間で衝突が起こります。1890年の「内村鑑三不敬事件」、1932年の「上智大生靖国神社参拝拒否事件」などは、キリスト教徒の信仰について国家との間で依然として緊張関係にあることを知らしめることとなりました。また、これらの事件に留まらず、十五年戦争中は日本の社会、国家権力はキリスト教を、潜在的に不穏な分子とみなしていましたし、また、日本国内のキリスト教自身も大半は信仰を曲げて国家による軍国主義政策に加担しました。
現行の日本国憲法20条には信教の自由について
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」
と信教の自由に留保条件をつけずに認めた上で、
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(※3)
として、国家や権力が特定の宗教との結びつき、癒着することを禁止し、一人ひとりの個人が特定の宗教を強制されない自由を言明しています。ここにおいて初めて、日本で宗教の自由が制度的な意味において保障が明文化されました。ただ、信仰のあり方という観点からすれば、私たちキリスト教徒が考えるべき信教の自由とは、信仰は何者によっても侵されてはならない、故に信仰が危機に陥るような状態を作り出さないよう不断の努力が求められる、ということではないかと考えるわけです。
今回の聖書箇所であるペトロのイエスの否認はマルコのみならず、マタイ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に記されています。ただ、イエスに対する否認の態度は他の福音書、特にルカ、ヨハネと比較した際にマルコが一番強く、そこにペトロの苦悩、動揺、それ故に犯した過ちへの悔恨の様子が特に表れていると感じます。日本人が歩んできた信仰は、ペトロが心ならずも迫害の危機に屈してイエスを否認したその苦しみの中にあった信仰ではないでしょうか。先人たちが辿ってきた苦難の歴史を学び、活かすことを通じて私たちが真に信仰に基づく行いをすることで、初めて信仰の喜び、大切さを認識できるのではないかと考えるのです。
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今回の投稿はいかがだったでしょうか。今日はクリスマス・イブですね。私は今日教会のイブ礼拝に行ってまいりました。カトリック教会の中には今夜一晩にわたってミサを行っているところもあります。また、明日はクリスマスなのでクリスマス礼拝が各教会で行われます。ご興味がおありの方はお近くののカトリック、国教会、メインライン、ルーテル派などオーソドックスの教会を訪れてみてはいかがでしょうか。
お知らせ
次回の投稿は都合により、当初予定の12月31日(土)の18時から21時までの間を12月31日(土)10時から14時までの間とさせていただきます。ご了承ください。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
(※1)
「日向の匂い」-日本人が歩んできたキリスト教の歴史(前編)-|宴は終わったが|note
(※2) フランシスク・マルナス著 久野桂一郎訳「日本キリスト教復活史」みすず書房 P243~P244
(※3) 日本国憲法 e-gov
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=321CONSTITUTION