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台湾に関する雑感②ー日本の台湾植民地支配をどう考えるか(前編)ー


はじめに

 台湾「親」日論の背景には、前回記事「台湾に関する雑感」で触れたとおり、台湾は日本の植民地支配を肯定的に受け止めている、との神話ないし思い込みが日本の中にある事が一因となっていると考えます。台湾植民地支配肯定論-ニュアンス的には礼賛論に近い-自体は、世代交代や、台湾研究が進んだこと、小林よしのり「台湾論」が台湾で反発を受けたことなどもあり(※1)、メディアや政治家などが表向きは、台湾植民地支配肯定論を主張することはなくなりました。しかし、台湾に関するnoteの記事でも李登輝が「日本精神」を強調し、戦前の日本を肯定したと主張する記事をちらほら見かけるなど、依然として台湾「親」日論神話も根強いのも事実です。

 今回は、そうした台湾植民地肯定論について、台湾人である戴国輝からの批判的考察を2回に渡って紹介します。前編の今回は、しばしば引用される後藤新平に対する評価に対する戴の批判的考察について皆さんと一緒に考えたいと思います。

戴国煇による批判的考察

台湾から近代日本を問い直す意味

 日本の台湾の植民地支配について、日本の植民地を経験した世代の台湾人からは肯定的評価がなされるとの誤解があるが、李登輝同様に植民地支配を経験した台湾人であっても、必ずしも肯定的な評価をしているとは限らない。1931年生まれの戴国煇は台湾植民地の民政長官であった後藤新平の植民地経営に関する肯定論について以下のように批判する。

 後藤新平の経営というものは日本にとっては勲章ものだと。だけれども実はもう少し長期的な射程でいうと、二つの原爆を食らったのは、後藤新平が受けつけた罪ではないか。その罪をもたらしたのは実は私の祖先、要するに台湾の人々の抵抗運動が弱かったからだというものです。
 日本に対して十分反省を促すことができなかった。だから、後藤新平をはじめ、台湾というのは踏みつけやすい、台湾の支那人は踏みつけやすいと思うようになった。

人文研究No.149 戴国煇「日本近代史と台湾ー批判精神の欠如について」 P50
神奈川大学 人文学研究所/人文学会

引用した後藤批判からは、日本が原子爆弾被爆による悲劇に遭った背景には、後藤新平をはじめ、近代日本および日本人がアジア諸国への侵略によって植民地支配、占領の過ちを省みることなく、行い続けたことにあると、戴が考えていることがはっきりとわかる。現に、戴は日本がポツダム宣言受諾による降伏に至ったのは、日本近代の過ちが根本原因であるとして次のようにも語る。

 日本が近代国家として出兵し、さらに植民地支配の経験を積んだ台湾での50年間とは何だったのか、もちろんその途中で韓国併合をやり、「満州国」建国をやるわけですが、台湾というのは、本来なら日本の近代を根本的にその意味を問うという意味で、あるいは原理的に問い直すためには大変に大事な場所であるけれども、そのことを取り上げた研究は日本でほとんどされておりませんでした。(原文では数字は漢数字)

人文研究No.149 戴前掲 P50

戴は、日本が近代に行ったアジア諸国への侵略、植民地支配の過ちを省みることができない原因は、日本人が植民地支配下の台湾で行われた問題を批判的に考察できないことにあるとして、その深刻さを指摘している。

児玉源太郎・後藤新平に対する評価

 戴は後藤新平について具体的にはどのような評価をしているのだろうか。戴は、後藤は陸軍出身の台湾総督である児玉源太郎とともに、台湾に対して「アメとムチ」の政策を行ったとして次のように述べる。

 (後藤)は旧慣尊重に名をかりて、まずは台湾抗日勢力の分断から手をつけた。後藤は、アヘンの厳禁策を暫禁政策に変えることで、有産階級のアヘン吸引者の不安をとり除いた。というのも、「日本人はアヘンを厳禁する」というのが抗日スローガンの一部となり、中上流地主層を抗日に駆り立てたことに後藤が気づいたからである。(太字のカッコは筆者が補ったもの)

戴国輝 「台湾」 P68 岩波書店

 (後藤は、台湾総督である児玉源太郎)と分業で児玉に、「饗老典」(耆老を集め酒宴を催し菓銭を与えて敬老の意を表する行事)を興させ、「揚文会」(士紳儒者を招いて共に漢詩を吟じる)を始めさせ、紳章(富農、寄生地主、証人層の有力者を士紳に列し、その栄誉をたたえると称して与えた勲章の類)を佩帯させるなど敵ながら見事といわねばならない。その一方、後藤は自ら鞭を遠慮会釈もなく使い、違反するものをすべて土匪と扱った。(太字のカッコは筆者が補ったもの。太字ではないカッコは原文ママ)

戴国輝 「日本人と台湾」 P146 「台湾と台湾人」 研文出版

 後藤の女婿の鶴見祐輔が編集した『後藤新平』は、明治30(1897)年から34 (1901)年までの間に捕えた土匪の数は8,030人、殺戮した者は3,473人また明治35(1902)年の大討伐にさいして捕虜とし裁判によって死刑とした者は539人、「臨機処分」に付して殺戮した者は4,043人の多きを数えた、と記している。「臨機処分」とは、招降策に応じて出頭してきたゲリラを帰順式の名をかり、一つの場所に集めて一斉射撃で虐殺するという、およそ武士道とは無縁な仕打ちである。すさまじい辣腕政治でなくてなんであろう。(太字のカッコは筆者が補ったもの。原文では数字は漢数字。)

戴前掲 「台湾」 P69

戴が指摘した、植民地支配に抵抗する者は投降した者であってもだまし討ちにして殺すという手法は、ペルーの独裁者アルベルト・フジモリが日本大使館襲撃を行ったトゥパク・アマル革命運動に対して交渉をする振りをしながら、軍・警察の特殊部隊によって襲撃した際に投降したメンバーをも超法規的措置によって殺害した手法と同じである。(※2)

 台湾においては大日本帝国憲法-その憲法自体がそもそも権威主義的で市民権がまともに確立されている憲法ではないのだが-による法治の適用が除外されており、事実上台湾総督が台湾の人たちの生殺与奪の権限を持っていた。台湾の人たちがまともに法の支配を受けられなかったこと、後藤が児玉とともに、超法規的措置によって植民地支配に抵抗する者を容赦なく虐殺したことを考えると、後藤の台湾に対する植民地経営が、台湾の人々の観点に立ったものではないという事実を私たち日本人は認識するべきだ。

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 いかがだったでしょうか。次回は、司馬遼太郎「台湾紀行」に対する戴の批判及び植民地支配の問題点についての戴の考察について、皆さんと一緒に考察して参りたいと思います。

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脚注

(※1) 「台湾に関する雑感」脚注(※5) 轡田竜蔵「台湾でも、『台湾論』論争が始まった」を参照のこと

(※2) 投降を呼びかけてそれに応じ帰順した者を殺したという意味では、ペルー大使公邸急襲の際に投降した者への殺害よりも考え方によっては性質が悪いかもしれない。
 なお、フジモリは国際刑事警察機構から訴追され、また、国内でも逮捕、収監された。


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宴は終わったが
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