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note記事を書くこと2

 過去にも「note記事を書くこと」ということで記事を書きましたが、今回はnote記事を書くにあたっていろいろ思い悩む点を挙げていきたいと思います。


題材を扱う際の姿勢

 前回の「note記事を書くこと」でも触れましたが、おそらくほとんどのnoterはまず何をネタにすべきかという点で悩むかと思います。私の場合、思いついたネタを、具体的にどのように活かしていくか、またどのように表現していくかということであれこれ悩みます。

 私は、アルベルト・シュバイツァーの人種主義、植民地主義的視点に対する批判的考察をしました。この視点の元々の発想は日本人の中にある無自覚なアジア諸国、とりわけ朝鮮半島、台湾に対して植民地主義的戦略論でのみ語る傾向への疑念から始まったものです。(※1)

 以上の視点は、シュバイツァーが行ったガボンでの医療活動の実績や、シュバイツァーの医療活動の根源である「生命への畏敬」という理念に対して敬意を表する人たちからすれば、シュバイツァーをネタにして自らの主張を展開したいだけだと思う人もいるかもしれません。実際、そうした要素があることは否定しません。

 しかし、それでもシュバイツァーに対して敢えて批判的に取り上げた意味には、ともするとシュバイツァーのガボンでの医療活動とその根拠となる「生命への畏敬」が神聖化されるあまり、シュバイツァーの実像、言動がどういったものであったのかについて、根拠に基づくいて検証するという要素を軽視ないし避けようとする姿勢に対する批判の意味があります。よく、メディア、とりわけテレビやSNS上では、扇動的な情感に訴える一方的な取り上げ方をするケースがママ見られます。これは、彼等自身の利害に関係するためになされるケースもありますが、基本的には視聴者が求めるであろうネタ、展開を行おうという発想からなされているケースが多いのです。

 もちろん、私自身が情緒や感情に流され、それが態度に出ることは公私ともどもありますし、まったく利害を無視して誰の目から見ても公正性、客観性を担保した記事を書くと言明できるだけの覚悟があるかと問われたら、ないと回答せざるを得ないでしょう。その意味で問題がないとは言いません。ただ、note記事を書くにあたってはできるだけ主観を排し、実証性に基づく客観的な記事にしていくという姿勢で臨むこと、また読者の皆様から、批判的な意見や異なる意見が出ることを受け止めることで、様々な問題点をできるだけ小さくできればと考えております。

題材に関連する文献に対する姿勢

 私自身、専門的に記事を書いているわけではないため、文献を探すに際して、どの文献が妥当か、まして文献の根拠資料をどう探すかということを系統だてて行うだけの能力に欠いています。文献を調べる際には、当該文献で言及している資料、参考文献をできる限り読むことで、題材の問題を理解するよう試みてはいるものの、それでも漏れが出てきます。そのため、後から扱った記事とは異なる視点の文献に気づいた際には、自分の視点の浅さや題材を深く掘り下げる努力を欠いていたと後悔することもしばしばあります。

 また、本来であれば、「本を読むこと」でも言及しましたが、一度読んだだけで文献の真意を理解するのは難しいと考えています。本来であれば、時間をおいてじっくり読むこと、とりわけ文献に読まれるのではなく、文献に対して自身がどのようなスタンスで臨むかという主体性を持って読むことが求められます。しかし、週1回のピッチでnote記事を掲載していること、仕事をしながら2足の草鞋でnote記事に臨んでいることもあり、大半の場合は文献を読んだ際に主要であると判断した箇所に付箋などをつけることで対応し、改めて文献を読み直すというケースが多く、本来必要な文献をきちんと読むという姿勢を欠いていることは否めません。ですので、私のnote記事は題材を深く追及できていないと常に感じさせられます。

題材を知るツールとしてのnote記事

 以上を考えると、私のnote記事は題材を知るきっかけを与えるという形での活用と、題材に対する私のスタンスがどういったものかを知るという形で活用していただけたらとありがたいと考えています。引用や文献の内容を紹介する際に、出典根拠をページも含め示しているのも私の書いた記事をそのまま鵜呑みにするのではなく、きちんと出典先も読んだうえで私の取り上げた題材について考え、また私の記事について主体的に批判も含めて考察してほしいという想いもあるからです。

 note記事の最後にある「私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。」という文言ですが、その意味は以上に述べた建設的な議論を読者の皆さんとともにしたいという想いを込めたものです。ですので、お時間を割いてコメントをしていただける方々には大変感謝をしています。コメント欄については必ずしも私と同じ見解、スタンスとは限らないこともありますが、それも私の視野の狭さ、過ちへの改善につながるのではないかと考えています。

 これからもよろしくお願いします。

お知らせ

 次回の投稿は、6月19日水曜日の20時から22時の間を予定しています。東京都知事選挙の主要候補者の公約比較について掲載する予定です。(内容は変更する可能性があります。)よろしくお願いします。

お知らせの訂正(2024年6月16日追記)

 次回の投稿を、当初6月19日水曜日の20時から22時としましたが、主要候補者の公約が遅れる見通しとなったため、告示日の6月20日の前日に比較検討する時間がないため、公約比較を掲載するのが難しくなりました。

 そのため、次回の投稿日を通常通り6月22日(土曜日)午前7時から午前11時の間とさせていただきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ただ、候補者公約比較の代わりに都政の課題としていくつかピックアップし、それがどのような争点となっているかを掲載していければと思っております。よろしくお願いします。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) シュバイツァーに関する関係者、識者の評価についての記事はこちら「密林の聖者」シュバイツァーはどう評価されてきたか
1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目

シュバイツァー自体の植民地主義、人種主義の主張に関する記事はこちら
「密林の聖者」とはどの視点によるものか
 1回目 2回目 3回目


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宴は終わったが
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