わたしは誰のために叱ったのか
こんにちは。詩さんです。
昨日は、とってもいい1日で終われるかな、と思っていたのですが
1日の最後にチョウナンといざこざがあって
最終的には、モヤっとした1日となってしまった。
なぜモヤっとしたのか、考えてみる必要がある。
チョウナンと衝突があると
色々と話すのだけれど、
曼終的には『全部チョウナンが悪いんでしょ』となって終わってしまうのだ。
私の言い方が責めているように捉えられてしまっているのだと思う。
自分の感覚と、自分以外の人間の感じ方は違っているところが往々にあって
わたしがこう思ってるんだから、当然相手も同じように思ってるに違いない、と過信するのは
傲慢でしかない。
相手が子どもだからといって、頭ごなしな言い方になっていないか。
チョウナンのことを思って言っている、と信じ込んでいるが
結局は自分がいいように誘導していないかに気をつけながら話さねばならないのだ。
例えば、よく子どもにいう
『あいさつしなさい』や
『何かもらったら何ていうの?』などは
子どものことを思っての"指導"なのだろうか?
自分が目の前にいるのに、あいさつしない子ども
何かをもらっても、感謝の言葉を伝えない子ども
そんな風に育てたのは「この親だ」、と
冷ややかな目でジャッジされることがイヤだっただけでは?
もしくは「チョウナンはキチンとあいさつが出来てえらいね〜!」と言われて誇らしい気持ちになりたかっただけでは?
今書いてて、気づきました。
わたしはチョウナンを自分のために叱っていたのだ。
公園に行った
何か小さなプレゼントをされた、
あめ玉をもらった
すべり台から落ちそうなのを助けてもらった
色々なシチュエーションで「あいさつ」や「ありがとう」「ごめんなさい」を言う機会がある。
無理やりお礼を書わせたところで、その子どもにとって全く利益はありません。
あめ玉をもらってうれしかった、
嬉しくて美味しかったのに、ママが怒った。
そんな印象しか残らないのは悲しい。
わたしの母親もとてもマナーというか、
そういった類のものに厳格な親だった。
相当キツく当たられたと思う、しかも結構大きくなるまで。
それなのに、どうして全く言われたことを覚えていないのだろう。。
「あなたのためを思って言っている」と母親は何度となく私に言い、説教をした。
最終的には説教もなくなり、文句になっていたように思う。
ただこれだけは事実で
全く、何らタメになったことはない、ということだ。
母親なりに苦悩して、より良くなって欲しいという感情はあったのだろうが
子どもがそれを受け取っていないのであれば、何ら無意味だと言っても言い過ぎではないだろう。
あめ玉をもらった子どもは嬉しいから、
一目散にあめ玉の包み紙をあけて、ほおばる。
それが子どもってもんだ。
まず親が「ありがとうございました」と子供の見ている前で言えばそれでいいのだろう。
そのあと、キチンと目を見て子どもに話せば
子どもであっても、わかってくれる。
怒って話すと、その言葉は「お母さんが怒った顔」とリンクして過ぎ去っていくだけなのだろう。
だからわたしもあれだけ母親に、
母親が思う「教え」を受けてきたのに
何一つ覚えていないのは、そのせいだろう。
ジャッジされたくない
誇らしい気持ちになりたい
それは全く子どもには関係ないことなのだ。
その自分の気持ちを通すために、子どもに言い聞かせたり
叱ったり、説教をしたって、子どもの心に残るはずはないのだ。
親の背を見て子は育つ
というのは本当なのではないだろうか
まずは子どもをジャッジするのはやめよう
誰に向かって迎合しているのだ?
あいさつも出来ない、
ありがとうとも言わなかった
そういう言葉を発するのはいつでも他人だ
わたしはその他人からのジャッジに敏感になり、自分のために息子を叱っていた。
でも結局のところ、その他人に言われたことが何だったというのだ?
その人が子どもにどう影響する?
子どもに向かって言われた言葉でもない。
自分であいさつが大切だとわかる日が必ず来る。
ありがとう、と相手に伝えることで自分にとっても何が得られるのかがわかる日は確実に来るのだ。
ただ親はその日を待てば良い。
わたしは、息子たちの良いところをたくさん知っている。
わたしたち親が、子どものことを誰よりも良く見て知り、理解していればそれだけでいいのだ。
色々ガミガミとうるさく言うよりも
お手本を見せると子どもは真似っこの天才だから親と同じようにふるまうようになる。
わたしが絶対なりたくなかった、お手本にはするまいと思っていた母親と自分が重なった。
わたしがしていることは自分の母親を辿っている。
それに気づかせてくれてありがとう。
『お前のためを思って、言っているんだよ』は本当なのか?
自分の心に聞いてみよう。
本当にわが子のことを心から思うなら
まずは黙って見守ることなのだ。
そして、疑わない。
『親の背を見て子は育つ』のだから。