短歌の流行と資本主義(要約)

角川短歌2022年7月号に書いた時評「短歌の流行と資本主義」を、砂子屋書房「月のコラム」で髙良真実さんが取り上げてくださっていました!(「短歌ブームはだめなのか?」2024年9月1日付け)
議論を深める一助になればと思い、全体を要約したものを掲載します。
いろいろと検討不足なところのある時評で今読み返すと恥ずかしいのですが、ご容赦ください。


なぜ短歌ブームについて考えるのか

特集「幻想の短歌」に見る短歌ブームのとらえようのなさ


「文學界」2022年5月号では、「幻想の短歌」と題した特集が組まれています。
「幻想」と銘打たれてはいますが、特集の扉のページに「最近、「短歌が流行っている」と耳にするようになった。」(p.65)とあるように、昨今の短歌ブームを背景にした企画であることがうかがえます。また、若手を中心とした執筆陣の多様な歌や論も、(座談会とアンソロジー以外では)あまり「幻想」を押し出しておらず、やはり短歌ブームを第2のテーマにした企画という印象を持ちました。
そして、この特集で示された短歌ブームの現状は、瀬戸夏子氏の批評のタイトルにあるような、「人がたくさんいるということ」※という以外に形容しがたい、漠然としたものという印象を受けました。

※瀬戸夏子「人がたくさんいるということ」(「文學界」2022年5月号pp116-119)。短歌の人気の広がりが短歌の受容や創作の動機付けに変化をもたらす可能性を述べられた批評。現代の短歌が、SNSを通じて無数の「ふだん短歌を読む習慣のない人」にまで即時に届くようになっている現象を指摘され、その中で、自己表現や「私性」に固執せず、外部からの注文に応じたり、外部の物語への熱烈な心寄せに誘発されたりする中で作られた短歌が、多くの支持を追い風に「さらなるスピード、さらなるポピュラリティ、さらなる売上」を獲得することで、閉鎖的な歌人のコミュニティにおける緩慢な受容や停滞した議論の打開に繋がるのではないかと予測されている。

ブームは良い面ばかりではない

ブームというと、業界全体が盛り上がるため、良い面に注目されることが多いです。しかし、ゆるキャラやご当地アイドルのブームがそうであったように、量産化、競争の過激化、ブームに便乗した搾取、飽和する供給、推し疲れなどをもたらすといった、欠点も持っているかと思います。

そのため、この時評では、短歌ブームという現象と付き合っていくために、

  1. 現在の短歌ブームがどういった社会背景のもとに現れたのか?

  2. ブームは短歌にどのような影響をもたらすのか?

  3. ブーム以外のところで、短歌の将来のために何かできるのか?

を考えてみたいと思います。


コロナ禍と資本主義

現状を分析する上で避けて通れないのは、2020年3月から今日(2022年5月)まで続くコロナ禍をきっかけに、少なからず私たちの価値観が変化したことです。
コロナ禍では、貧困の広がりや、搾取・犠牲の上に成り立ってきた社会の仕組みの欠陥が、ずっとはっきりと目に見えてくるようになりました。たとえ多少の蓄えを持っていたとしても、本当に困ったときに誰も助けてくれないのではないか、という不安が、実感を伴って迫ってきていました。
そうした不安は、これまでの社会の仕組みは本当に良いものだったのだろうか、という反省にもつながっていったと思います。

特集「ポスト資本主義とアート」を参考に考えてみる

そういった観点から社会と芸術の関係を扱った論考はないかと探したところ、「美術手帖」2020年10月号の特集「ポスト資本主義とアート」が見つかりました。
これは、コロナ後のアートの在り方を再検討・軌道修正するため、資本主義を論点として取り上げた特集です。アートのことは恥ずかしながら全く知識がないのですが、参考になる点もありそうでしたので、この特集をもとに考えてみることにしました。

例えば、哲学者のマルクス・ガブリエル氏は、本来アート作品自体は経済の枠組みにとらわれないものであり、広範な事象に浸透していくものである、というスタンスから、次のようにインタビューに応えています。

  • アート作品が消費の対象となり、アートに関わる人々を搾取したり、アート界内部の差別的構造を許容したりするといった現状は批判的に見ている。

  • 「本来のアートにそれが必要なように、人類全体に、道徳的な改革が必要」(p.14)

  • 天才たちだけが活躍し、中心地だけが繁栄するといった従来の在り方から、搾取や差別を撤廃した公平なマネジメントや、ローカルな共同体への貢献を目的とした在り方へ転換するべき。

また、思想史家・政治学者の白井聡氏は、現在社会では、資本主義が現代に生きる人々のほとんどの欲望を形成しているという前提のもと、次のように論じています。

  • 資本主義社会では、「下から」の要因と、「上から」の要因の、双方からアートの価値が決められるという構造がある。

    • 「下から」の要因:経済を担う抽象的・匿名的な「市場での人気=大衆の嗜好」(p.23)

    • 「上から」の要因:芸術作品そのものの「純粋な芸術的価値」(p.23)を判断するための「ミュージアム、ジャーナリズム、アカデミズム、批評、各種の賞典といった権威を有する制度」(p.23)

  • 資本主義の行き詰まりに伴い、「上から」の要因としての権威の衰退が生じ、一方、「下から」の要因としての大衆に接近することを選び、市場に迎合したアートが優勢になっている。その双方が、アートを閉塞へ追いやっているのではないか。


短歌ブームに至るまでの短歌と資本主義

「市場での人気」と「権威を有する制度」の関係を短歌に置き換えてみると

アートの市場は短歌と比べものにならないので、単純に当てはめることはできませんが……「市場での人気」と「権威を有する制度」が作品の価値を決めるという構造は、今の短歌の状況にもある程度当てはめてみることができるかもしれません。

もっと「市場での人気」を重視するべき?

たとえば、短歌の人気を牽引されている岡野大嗣氏は、『ねむらない樹』vol.4(2020年2月)の対談「言葉が「うた」になるとき」の中で、歌集『たやすみなさい』(2019年10月刊)が売れ行きを伸ばしている一方、「短歌のフィールド」からの「これが現代短歌の代表だと思われると困る」(p.143)といった懸念が寄せられていることに触れて、その懸念への回答として、「(鈴木注:短歌のフィールドからは)「いや、たかだか(鈴木注:初版部数が)2000部でしょ。10万部いかないと売れたって認めないよ」っていう声を聞きたい。そういう風にしていきたいし、もっとその入口になって、素人の方に「ヤバイ」「エモい」「つまらん」とか無遠慮に言われる状況を作って、短歌がもっとタフになってほしい」(p.143)と述べられています。

これは、(専門家以外の)一般の人々の感性とともに、市場で成功するような短歌の価値を、もっと歌壇の人々も信頼してほしいという意見のように読めます。
そう言われてみると、音楽や映像などのジャンルでは、作品を市場に投入する際に、YouTubeでの再生回数やフォロワー数などが作品の「良さ」を保証する指標として示されています。また、一般のフォロワーが発掘した作品を、専門家が後追いで評価するということもよく見られる現象です。
岡野氏の意見は、なぜそれを短歌には適用しないのかという問題提起として説得力を持っているように感じられます。

「権威を有する制度」に向けられる危機感

一方で、短歌における「権威を有する制度」の側は、将来への危機感を指摘されるようになってきています。
たとえば、歌人の組織や結社については、栗木京子氏が、「若い歌人」が歌人協会に入会したり結社に所属したりすることを好まない傾向にあることを懸念されています(「短歌研究」2022年1月号の鼎談「いま大切にしたい『言葉』について」)。
また、総合誌や短歌新聞については、島田修三氏が、若手への安易な追従などが見られる総合誌・短歌新聞の編集方針を批判されています(「うた新聞」2022年4月号の巻頭評論「ネアンデルタール雑感――現代短歌とメディア」)。
さらに、総合誌の主催する新人賞に目を向けても、斉藤斎藤氏が、新人賞を受賞することによって得られる歌壇での地位や定期的な作品依頼を求めていない人が増えているとした上で、「新人賞は最大の権威づけのシステムだったわけですけど、それが効かなくなっている」と推測されています(「短歌研究」2022年4月号の対論「短歌は「持続可能」か。」引用部はp.88)。

こうした指摘は、これまで短歌の「純粋な芸術的価値」を信頼し、その価値を判断する役割を担ってきた「権威を有する制度」が、弱体化したり失われたりすることへの危機感ととらえられるかと思います。

「市場での人気」の持つ説得力の拡大と、「権威を有する制度」の危機感は、双方が資本主義社会の中で醸造され、それを一気に加速させたのが短歌ブームだったといえるのではないでしょうか。


短歌ブームを資本主義の観点から整理してみる

以上の短歌ブームに至るまでの背景を踏まえた上で、現在の短歌ブームをめぐる状況を試みに整理すると、例えば以下のようにまとめられるかと思います。

  • 大衆志向の短歌が、市場でますます人気を獲得する

  • 短歌の価値を判断する上で、売り上げやフォロワー数はますます無視できなくなってくる

  • 市場が広がったことで多くの書き手が生まれるようになり、作品や情報は量を増やす

  • これまで作品そのものの「純粋な価値」を保証してきた従来の権威の側が不安定であるために、書き手たちは、「市場での人気」を意識しつつも、作品そのものの価値を計りかねている

  • 「市場での人気」と「権威を有する制度」とのせめぎ合いの中で書くことの意味を見つけ出すため、書き手たちはさまざまに苦闘している


資本主義以外の道を用意しておくとしたら

「市場での人気」にせよ「権威を有する制度」にせよ、いずれも資本主義の構造の中で展開されているということになります。

「市場での人気」や「権威」に裏付けられた創作活動によって優れた作品が生まれてきていることは事実ですが、それとは別に、もっと(資本主義社会とは相性の悪い)倫理や良心、創作の楽しみ、鑑賞の楽しみといったものを意識的に残していくための方法も、用意しておくとよいかもしれません。

ここでも「美術手帖」の特集を参考にしてみると、「他者への貢献」や「ローカルな交流」の持つ意義を考えてみることが有効そうです。

「ローカルな交流」の場としての寄贈文化・同人誌

たとえば、歌集や同人誌には寄贈の文化があります。
2021年のトピックとして、石川美南氏は、コロナ禍の中で書き手同士の交流の機会が減り、SNS上では分断が広がっている現状を指摘された上で、総合誌の歌壇名簿が連絡先の掲載を取りやめたことについて「寄贈文化が残る歌壇において(…)さらなる読者の棲み分けにつながらないと良いのだが」と危惧されています(「短歌研究」2021年12月号「二年目のコロナ禍/「読む」ことについて」)。
ここでは、寄贈文化が、単なる贈与にとどまらず、(対面・非対面を問わず)実体のある他者との「ローカルな交流」の場であるととらえられていることが注目されます。

実体のあるローカルな場としては、同人誌もますます期待されます。
なお、これまでは、書き手一人一人の個性やプロフィールといった「人」を軸にしていたものが多かったように思いますが、テーマや企画を前面に打ち出したものなど、ローカル志向の場としての可能性を追求する試みに新たな可能性が見出されてもよいかもしれません。

「他者への貢献」は過去にロールモデルがありそう

「他者への貢献」はなかなか難しいところですが、過去の歌人たちの活動の中からロールモデルを探してみるという手があるかもしれません。
例えば、角川「短歌」2022年3月号の特別企画で取り上げられていた落合直文は、多彩な弟子たちを育成し、経済面・精神面の双方からの支援を行ったという面でも、充実したロールモデルとなりそうです。
「他者への貢献」という点で重要な役割を果たした歌人たちを、どのような文学的素養や信条を持っていたのか、どのような社会的背景などがあったのか、といった点に着目して知ってみると、ヒントが見つかるかもしれません。

「短歌ブーム」の影で

いろいろと書き連ねてきましたが、今のところ、短歌と資本主義の関係をそれほど悲観するような事態には陥っていません。

「市場での人気」を意識した書き手たちは、やすやすと市場に迎合してしまうようなことはなく、先に挙げた岡野氏をはじめとして、普及活動や情報発信に真摯に取り組まれています。
また、「権威」の担い手たちも、これまでの蓄積と責任をしっかりと踏まえた上で、真剣に後進たちの作品を読み、評し、よりよい未来のために奮闘してくださっています。
そもそも、短歌の市場の広がりは、限られた天才にだけでなく、あらゆる書き手と受け手にとってよい結果をもたらしてくれるものともなり得るでしょう。

そのような中にあってもなお、先に挙げたような「ローカルな交流」や「他者への貢献」のための取り組みは、創作が、人生の一部分/全てをかけて打ち込むのに値する営為であるという(ある意味資本主義とは相反するような)喜びを、私たちに思い出させてくれるのではないかと思っています。【終】


もはやブームではない?(後日談)

以下は、2年後の2024年現在から読み返した感想です。

自分の先見の明がなかったと思うのは、これを書いた時点では、「ブームはすぐ収まってまた元に戻るんだろうなあ」と思っていたことです。

8年前に「ユリイカ」2016年8月号で特集「あたらしい短歌、ここにあります」があったときも、かなり高揚感はあったのですが、大きな書店で歌集コーナーに人がいるということは起きず、そこまで短歌が一般に浸透したという印象は持っていませんでした。
2017年8月に新宿の書店の歌集コーナーを見に行ったとき、通りかかった伊波真人さんが声をかけてくださった(たしか2015年ごろに1回お会いしたきりだったのに……)ことがあったのですが、あれもあまり人がいなかったから目立ったのでは、と思っています。

ところが、千種創一さんの『千夜曳獏』(2020年5月刊行)や川野芽生さんの『Lilith』(2020年9月刊行)が出たころから、池袋の書店に行くと歌集を持ってレジに並んでいる方を見かけるようになります。
時評を書いていた2022年ごろから歌集コーナーの棚の前に人がいることが増え、2023年ごろからは、棚の前に常に2~3人くらいの方が本を選んでいるような状況が続いています。

私が大きな書店に行くのは年に数回くらいしかないので、非常に心もとない統計ではありますが、もう2年、3年、4年と活況が続いているのであれば(岡本真帆さんの『水上バス浅草行き』が2022年3月刊行、木下龍也さんの『オールアラウンドユー』が2022年10月刊行)ブームというには長過ぎ、もう次の段階に移っているのではないか?とも最近は思っています。

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