市場におけるケア、こぼれおちるケア
「ケアの倫理」というキーワードに触れてからかれこれ1年ほどになります。ゆるやかなペースで探索を続けながら、ケアの倫理が目指す世界が、ぼくの実感として朧げに見えてきたので、今日は、その仮説を書きます。
年始に思い立って買った書籍『ケア宣言 相互依存の政治へ』を、ぱらぱらとページをめくるなかで、いくつかのイメージが見えてきた。
まず、この書籍では「パンデミックは、この社会が"ケアを顧みない社会"であることを露呈した」と訴える。この間、医療関係者、ソーシャルワーカー、高齢者、健康にか不安を抱える人たち、貧しい人々、不安定雇用の元にある人たち、受刑者らがうけた支援は取るに足らないものだったことが明らかにしたように、弱者をケアすることに失敗し続けている。
また同時に、社会福祉やコミュニティの理念が脇にやられ、「レジリエンス」「ウェルビーイング」「自己開発」といった個人化された考え方にとって代わられている。このことに対して「そうした考え方は、ケアを私たち自身が個人単位で購入する何者かへと格下げする、セルフケア産業の興隆によって広がった」とする。
このような世界を前に、「ケアを全面かつ中心に据える政治の必要」を訴えるのが本書だ。
ケア宣言が見据える社会
さて、このケア宣言が見据える社会とはいったいなんなのかを考えてみる。
単純に図式化すれば、以下のようになるのではないか。
政府によってなされるべきケア領域は年々縮小する傾向にあり、「新自由主義社会」が標榜するような自由な競争、自由な市場によって、「市場によるケア領域」が世界を覆うようになる。「政府」「市場」そのどちらからもこぼれ落ちたケア領域が存在する。
こぼれ落ちた領域を包摂するかたちで、ケアに満ちた社会をいかにつくるか?と問いかけているが本書だ。冒頭で現状の社会への痛烈な批判が展開したのち、「ケアに満ちた政治」「ケアに満ちた親族関係」「ケアに満ちたコミュニティ」「ケアに満ちた国家」「ケアにみちた経済」と、仮説が展開していくこの本は、批判だけでなく展望が描かれている。
さて、ぼく自身が関わりのある領域を参照しながら少し考えてみる。事例として検討してみたいのは、「教育サービス」と、「企業のダイバーシティ&インクルージョン」の領域だ。
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