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ぼくが目になろう(前編)
谷川俊太郎さんが亡くなられた。合掌。
たくさん頂いた。
鮮烈さ、言葉遊びのテンポ、自分を大事にすること、無邪気さ、素直さ、自分勝手、ありのままの己を見る冷徹さ。表現者として、人として、これからもずっと私の教科書である。たくさんの人にとってそうであろう。
表題は絵本「スイミー」の中の主人公の台詞。何年か前の甥の発表会か何かでも群読劇として見た。これも翻訳を俊太郎さんが手掛けていたんだってね、ニュースで聞くまで知らなかった。が、その台詞は峻烈に胸に響いていた。訃報を朝のニュースで耳にして、慌ただしく出掛ける準備をしながら、私は何になりたかったのだろうと考える。日常の中にあっても、胸の底にまで届く力が、彼の言葉にはある。
私はそういう者になりたかった。十代で山月記に出会って、こういう風に人の心に届く作品を、後の世に残る作品を一つでいいから書きたいと、若い胸は望みを抱いた。
この日はテレビやラジオでも巨星堕つのニュースをたくさん流していて、アナウンサーが、僕も心が折れそうな時に助けられたと言っていた。
詩は心に届いた、今も身に息づいている。けれど救われた思いはない。青春の鬱勃とした苦しみから私を救ってくれたのは演劇であった。明日まで生き延びさせてくれる光は舞台にあった。
音楽も本も花も酒も台所も大好きだ。どっぷり浸かって生きていきたい。演劇は好きとは違う。趣味でもない。何かもっと切実に求めたものであった。その割に離れた時間が長かったのだが。今、リハビリ公演と銘打って私は何がしたいのか。
通勤途上、毎朝、卒業した小学校を通りかかる。今日、横断幕を目にした150周年なんだと。祖父も母も叔父も、兄弟、親族の子供たち、みんな通った学校。ここの校歌がとてもいい。定番ではある。地域の山川を四季にのせて歌う内容なのだが、何とも慈愛に満ちている。
昭和の半ば、その小学校に勤めた先生が作詞、我が町にピアノと共にやってきたお婿さんが作曲をしているのだ。(先生の婿ではない)
「私が歌詞を書きます」
「僕が曲を付けましょう」
子供や町、そこに暮らす人々を愛した若者の、そんなやり取りが目に浮かぶようだ。そんな様がたまらない。私が好むのは、だからやはりドラマなのだろう。私はきっと、愛すべき者たちの生きるあり様を書こう。先人の偉業に少しも届かなくても、心正しく愛情深く生きていれば、素敵な瞬間を捕まえ形にする僥倖はきっと私にも訪れる。
クリスマスが来る。敬虔なクリスチャンの友人はイエス様に出会って世界が整然とした、苦しみから救われた、と言っていた。私は混沌と共にありたい。生活も現実も白黒はつかぬ。とてもたくさんのイエスとノーで出来た濃淡あるグレーで織りなされ、その上に思いついたみたいに途端に華が咲く。その鮮やかなこと。
言葉や芝居や物語、音楽に抱きしめられた記憶。それを誰かに返したい、それは真っ当なことだろう? どうだクリスマスにふさわしいお話になってないかい。メリークリスマス。あなたにもあなたにもよい年越しでありますように。私は今から丸鶏を仕込む。母主宰のクリスマスパーティで家族に食べてもらうのだ。
クリスマスでまとめたかったのに話が終わらない。後半へと続けよう。